南真志野城(みなみまじの)
 別称  : 真志野城
 分類  : 山城
 築城者: 真志野氏ないし諏訪氏
 遺構  : 曲輪跡、土塁、櫓台、堀
 交通  : JR中央本線上諏訪駅よりバス
       「真志野」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           口伝では真志野氏がいたとされるが、真志野氏の存在について史料上では確認されて
          いない。天文十一年(1542)の『守矢頼真書留』に、「七月桑原より真志野城へ矢嶋殿同心
          宮にまはり云々」とあるのが、史料上に(南)真志野城が登場する唯一のものである。天文
          十一年七月は、甲斐の武田晴信が高遠頼継らと組んで諏訪へ侵攻した月である。矢嶋殿
          とは諏訪大社禰宜の矢嶋満清を指すものと思われ、惣領諏訪頼重の最後に立て籠もった
          桑原城から、満清が「宮(大社神長官の守矢頼真の側という意味か。頼重と対立していた
          頼真はすでに武田・高遠側についていたものと考えられる。)」側へ寝返り、南真志野城に
          入ったことを示していると考えられている。
           廃城時期は不明である。満清は、同年九月に頼継が諏訪郡全域の領有を図って晴信と
          争った際に頼継側について敗れ、禰宜職を取り上げられている。


       <手記>
           南真志野城は、諏訪盆地に臨む急峻な峰上にあります。地図を見ても明らかなとおり、
          標高1000m超という非常な高所に築かれています。もっとも、諏訪盆地自体が標高750m
          ほどあり、比高でいえば異常なほど高いというわけではありません。しかし、周辺の城に
          比べて高所にあることは間違いなく、このことは南真志野城が付近の有賀城大熊城
          北真志野城などより新しく築かれた可能性を示しているものといえます。
           満清が移った「真志野城」が南真志野城を指しているという確たる証拠はなく、北真志野
          城である可能性もあるとはいえます。ただ、北真志野城主と伝わる真志野氏や胡桃沢氏
          については、15世紀初頭以降の動向が確認できていないことから、北真志野城はこのとき
          すでに廃れていたものと考えられているようです。
           南真志野城が南裾を走る真志野峠越えの道を押さえる役割をもっていたことは、容易に
          推測されます。この道は後山の集落を経て沢川沿いに箕輪へと至ります。北真志野城から
          も西へ向かう峠道があり、あるいはこれらの峠道に主副の入れ替わりがあり、それに伴って
          南真志野城が築かれたとも考えられます。
           城は、ピークの主郭とその下を取り巻く帯曲輪、そして北東に続く尾根に数段の腰曲輪が
          連なる縄張りをしています。主郭南西隅には櫓台状の高まりがありますが、これほど高い
          山城に櫓は不要とも思われるので、おそらくは烽火台か物見台と推測されます。主郭の西
          には大きな堀切があり、その西は曲輪としては整地されていませんが、街道と尾根の間が
          最も狭まっていると思われる地点が土橋状になっています。
           城の麓までは林道が通っていますが、そこから城へ登る道はとりたててないので、山肌を
          よじ登る必要があります。幸い城山一帯がちょうど間伐されたばかりだったことと、そもそも
          諏訪の山林はカラマツ林で構成されていることが多いため、比較的容易に尾根にたどり着く
          ことができました。

           
 主郭のようす。右奥にみえるのが櫓台状の高まり。
帯曲輪とその先の腰曲輪群を望む。 
 主郭背後の堀切。
城の西方尾根筋の土橋状の部分。 


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