小牧山城(こまきやま) | |
別称 : 火車輪城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 織田信長 | |
遺構 : 石垣、曲輪、堀、土塁、虎口、井戸跡 | |
交通 : 名鉄小牧線小牧駅からバスに乗り、 「小牧市役所前」下車 |
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<沿革> 永禄五年(1562)に三河の徳川家康と清洲同盟を結び、後顧の憂いなく美濃攻めに 注力できるようになった織田信長は、翌六年(1563)に小牧山城を築いて清洲城から 移った。『信長公記』によれば、このとき信長は新城移転に対する家臣の反発を抑える ため、まず二宮山(現在の犬山市の本宮山)への移転計画を公表し、家臣の反対意見 が出尽くしたころを見計らって改めてより清洲に近い小牧山を候補に挙げ、それならば と家臣も応じたとされる。ただし、当時は敵対する織田信清がまだ犬山城に拠っており、 そのすぐ近くの二宮山に居城を移すのは現実的とはいえず、話の信憑性には疑問が 残る。また、『定光寺年代記』によれば、城は当初「火車輪(ひくるまわ)城」と呼ばれた とされる。これは、小牧山の別称「飛車(ひくま)山」にちなんだものと推測される。 永禄十年(1567)、信長は美濃を手に入れ岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となった。 信長が在城期間は4年強であった。 天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いに際し、家康は小牧山を占拠して犬山城 や楽田城を拠点とする羽柴秀吉勢と対峙した。同年四月九日の長久手の戦いでは、 秀吉軍が陽動として小牧山城へ攻撃を仕掛けている。その後、秀吉は久保山砦まで 前進して指揮を執ったが、小牧山ラインの戦線は膠着状態となった。同年の十一月に 講和が成立すると、小牧山城は他の陣城とともに廃城になったものとみられる。 江戸時代には、家康公ゆかりの地として全山入山禁止とされた。 <手記> 高速道路からは何度も遠目に見ていた小牧山城ですが、2022年にようやく初訪問と なりました。発掘や整備事業が進められているようで、小牧山城史跡情報館や市役所 前の堀と土塁、東麓の外郭など、復元や史跡公園化もたけなわといったところでした。 まだまだ大手道や山腹の曲輪群などは道半ばといった感じですが、今後に大いに期待 が持てます。ただ、主郭北側の復元石垣については、なんというは市井の造園業者に 適当に依頼したというような仕上がりで、少々残念に思います。 山頂の小牧市歴史館も、遠目には模擬天守っぽく見えるのですが、近づいてみると 西本願寺の飛雲閣をモデルにしたというだけあって天守というよりは楼閣といった感じ です。発掘整備事業が進むうちに、こちらの処遇についても意見がでるのではないか と拝察します。最上階からは、遠く犬山城や岐阜城もはっきり望むことができ、信長の 美濃平定や小牧・長久手の戦いの臨場感を疑似体験できます。 中世城郭ファンとしては、主郭西側の空堀にとくにグッときます。この空堀は山頂部を ぐるっと取り巻いているようで、おそらく信長時代の遺構でしょう。どこまでが信長時代 で、どこが家康による改修なのか、想像しながら歩くのも小牧山ならではの楽しみでは ないでしょうか。 南麓にある小牧市役所の上階には食堂が併設されていて、窓からは正面に空堀や 土塁、山頂の歴史館などが望めます。時間があったら、ぜひ立ち寄ってみてください。 |
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小松寺砦跡から小牧山城跡を望む。 | |
山頂の小牧市歴史館。 | |
歴史館から犬山方面を望む。 中央左手のゆったりした丘が伊木山城跡。 その右手の丘に犬山城。 中央右手の小丘が岩崎山砦跡。 その右手に久保山砦。 |
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同じく名古屋方面を望む。 | |
主郭北側の復元2段石垣。 | |
主郭下の転落石。 | |
一時保管されている裏込石。 | |
主郭西下の腰曲輪。 | |
その西側の空堀。 山頂部を取り巻いているそうです。 |
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空堀西側の土塁に囲まれた曲輪。 | |
主郭南方斜面の石垣。 | |
主郭南方斜面の腰曲輪と土塁。 | |
腰曲輪の切岸。 | |
桜馬場跡。 | |
大手道。 | |
南麓に復元された堀と土塁。 | |
南東麓隅付近の枡形虎口。 | |
虎口脇の土塁に囲まれた曲輪。 居館跡か。 |
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同曲輪から小牧山を見上げる。 | |
東麓外郭と土塁。 | |
土塁の断面展示。 | |
市役所食堂から小牧山を望む。 |