長島城(ながしま)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 伊藤重晴
 遺構  : 堀跡、門、石垣
 交通  : JR関西本線長島駅徒歩7分・近鉄
      名古屋線近鉄長島駅徒歩5分


       <沿革>
           文明年間(1469〜87)に伊藤重晴によって築かれたといわれる。伊藤氏は北勢四十八家の
          1つで長野工藤氏の一族と伝わるが、詳しい系譜は不明である。また、桑名城の前身である
          東城の城主で、同じく北勢四十八家の伊藤武左衛門とは同族とも類推される。
           永禄十年(1567)に織田信長が美濃国を制圧すると、斎藤龍興は長島城のすぐ近くにあった
          願証寺を頼った。これを追って織田勢が北伊勢へ侵攻した際に、伊藤氏は織田氏に臣従した
          とみられる。
           元亀元年(1570)、願証寺を中心とする長島一向一揆が発生し、一揆勢は長島城を攻撃して
          伊藤氏を追い落とした。当時の伊藤氏当主の名などは定かでない。長島城をはじめ中洲地帯
          を占拠した一揆勢は、織田氏の攻撃に頑強に抵抗して多くの将を討ち取った。
           天正二年(1574)、信長による第三次長島侵攻が行われ、長島の諸城には7万とも8万とも
          いわれる大軍が攻め寄せた。先に陥落した城砦からの撤退者を収容した長島城は、たちまち
          兵糧不足に陥って降伏を申し出た。しかし、信長はこれを許さず、船で退去しようとした男女を
          多数射殺したとされる。城に残った一揆衆は逆に腹をくくり、捨て身の反撃に出て信長の庶兄
          信広や弟秀成、叔父信次、従弟信成などを討ち死にさせた。
           一揆の鎮圧後、長島城は織田家臣滝川一益の居城となった。天正十一年(1583)に賤ヶ岳
          の戦いが勃発すると、一益は柴田勝家・織田信孝方に与し、羽柴秀吉勢を迎え撃った。勝家・
          信孝が自害した後も、約2か月にわたり長島城に籠城して抗戦したが、ついに降伏して蟄居・
          出家した。
           戦後、一益旧領は織田信雄に与えられ、信雄は長島城を居城とした。しかし、天正十三年
          (1586)の天正地震で長島城は天守の倒壊など甚大な被害を受けたため、信雄は翌十四年
          (1586)に清洲城へ移った。長島城には、天野雄光(景俊)が城番として入ったとされる。
           天正十八年(1590)に信雄が改易されると、その旧領は豊臣秀次に与えられた。ただし、
          北伊勢5郡については秀次による支配実態の裏付けがなく、雄光や原長頼(胤房)が秀吉の
          直臣として長島城主を務めたともいわれる。
           文禄四年(1595)に秀次が切腹すると、福島高晴(正頼)が長島城主となった。このとき、
          高晴の兄正則も清洲24万石に加増・転封となった。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、高晴は兄とともに東軍に属し長島城に籠城した。
          桑名城の氏家行広が西軍の伊勢方面軍に屈したため、長島城は最前線となったが、東軍の
          主力が美濃へ向かったことにより、西軍もこれを追って転進した。戦後、高晴は宇陀松山藩
          2万石へ加増・転封となった。
           翌慶長六年(1601)、徳川家臣菅沼定仍が2万石で長島城主となり、長島藩が成立した。
          菅沼家のもとで長島城は近世城郭として整備されたが、2代定芳が元和七年(1621)に近江
          膳所藩へ加増・転封となった。長島は天領となり、長島城もいったん廃城となった。
           慶安二年(1649)、久松松平康尚が1万石で長島藩を再興した。ただし、石高が少ないうえ
          水害に悩まされやすい土地であることから、城がどの程度修復されたのかは定かでない。
          康尚の子忠充は、狂乱したとして元禄十五年(1702)に改易され、代わって常陸下館藩から
          増山正弥が2万石で長島藩に封じられた。以後、増山家が8代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           長島一向一揆の舞台として知られる長島城跡ですが、市街地化などにより遺構はほとんど
          ありません。長島中部小学校全域に長島中学校グラウンドを加えた範囲が、おおよその本丸
          および副郭(二の丸か)の敷地に相当するようです。すなわち、グラウンド西側に沿った道路
          は堀跡のラインということになります。一方、城郭風とも見える中学校の校舎は、本丸北側の
          堀跡に建てられているようです。
           小学校の東側道路沿いには説明板があります。また、本丸南西隅の樹齢300年以上のクロ
          マツが残っているということですが、こちらは学校内に入らなくないので見学は断念しました。
          城の東側に沿って流れる長島川は、当時は潮入と呼ばれ堀と運河の役割も果たしていたよう
          です。川に架かる大手橋の橋脚に石垣の一部がそのまま使われているそうですが、こちらは
          見落としてしまいました。
           また、城の北東の蓮生寺には、大手門の一部(二の門か)が移築されています。

 小学校沿いの説明板。
堀跡のラインをなぞる道路。 
 長島中学校。グラウンドは副郭(二の丸?)跡で、
 城郭風(?)の校舎は堀跡に建っています。
大手門付近のようす。 
 城の東沿いを流れる長島川。
蓮生寺に移築された大手門の一部(二の門か)。 


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