高麗寺山城(こうらいじやま)
 別称  : 高麗山城
 分類  : 山城
 築城者: 伊勢宗瑞(北条早雲)か
 遺構  : 堀、土塁、削平地
 交通  : JR東海道本線大磯駅または
      平塚駅徒歩50分


       <沿革>
           『小田原記』によれば、永正七年(1510)の長森原の戦いで関東管領山内上杉顕定が討ち
          死にしたことを受け、伊勢宗瑞(北条早雲)が「高麗寺山」並びに「住吉の故城」を取り立てて
          籠もったとされる。このとき、早雲は扇谷上杉氏重臣で権現山城主の上田政盛を寝返らせ、
          その後詰に向かっていた。しかし、早雲の援兵は上杉氏の軍勢によって退けられ、権現山城
          も攻め落とされた。
           高麗寺山城のその後については不明である。遅くとも、北にある三浦道寸(義同)の岡崎城
          が、早雲によって永正九年(1512)に攻め落とされるころには廃されたものと推測される。


       <手記>
           平塚市街の西にゆったりとした姿でせり出す高麗寺山城跡は、今では高麗山(こまやま)と
          呼ばれ市民の格好のハイキングコースとなっています。比高は150mとそれほど高くはなく、
          私が訪れたときも小さな子供を連れたたくさんのファミリーが登っていました。
           高麗寺山の名は、かつてこの山に存在した高麗寺という寺院にちなんでいます。山は東西
          に大きく3つの峰から成っていて、西から八俵山、大堂、東天照と呼ばれています。それぞれ
          の峰には権現社が祀られていましたが、明治の廃仏毀釈によって高麗寺は廃寺となり、3社
          はまとめられて南麓の高来神社となりました。
           中心となる大堂には、権現社の跡とみられる削平地があります。その背後は土塁のように
          高まっているのですが、形状から見てこれは城砦のものではなく、寺社建造による削り残し
          と考えられます。大堂境内跡の1段下にももう1つ平場があるのですが、これも寺社のもので
          ある可能性が高そうです。
           高麗寺山城の見どころは、大堂の東西の鞍部にあります。西には2条、東には2ないし3条
          の堀跡が見られます。とくに西側の堀切はどちらもはっきりしていて、八俵山に近い方では
          そのまま竪堀となってかなり下まで続いています。東側の堀は不鮮明ですが、それでも中世
          城郭を見慣れた人であれば、全部見過ごしてしまうということはないでしょう。
           東西堀切の先にある八俵山・東天照の両ピークには、うって変わってこれといった造作が
          みられません。おそらく、高麗神社のうち大堂のみを臨時の城砦として取り立て、峰続きの
          鞍部に堀を穿って防御に充てたのでしょう。
           さて、このように比較的はっきりと遺構が見られるにもかかわらず、『日本城郭大系』では
          「認め難い」として、その存在が否定されています。同書の「高麗寺山城」の項では、「城郭
          遺構は存在しない」「城郭遺構が認められない」「城郭遺構とみなされるものは、このように
          認め難い」と、まるで自ら言い聞かせるように何度も念押しをしています。ですが、実際には
          上述および下に掲載している写真のとおり、城郭遺構とみなさざるを得ない地形がいくつも
          見受けられます。
           このような記述の背景には、高麗山の北麓にある山下長者屋敷の存在があると思われ
          ます。『大系』の当該記事の著者は、逗子市の住吉城を『小田原記』の住吉要害に充てる
          従前の説に疑義を唱え、山下長者屋敷が住吉要害であるとする説を呈しています。詳しくは
          山下長者屋敷の方の記事を参照いただければと思いますが、私は同屋敷を「要害」と呼ぶ
          のは無理があるように考えています。
           『大系』の著者も、その点は自説のウィークポイントと自覚していたのだろうと思われます。
          なので、住吉要害とともに取り立てられながら「高麗寺山」としか記載されていない高麗寺
          山城が、高い山の上の要害性をもった城砦であっては都合が悪かったのでしょう。ゆえに、
          山上の明確な城郭遺構を見なかったことにして激しく否定し、さらに同書では南麓の高来
          神社境内を「高麗寺山」の城砦と比定しています。山下長者屋敷を住吉要害であるとする
          大目的のために、「高麗寺山」の城砦を同じ山麓の平地にあったとして自説を補強したい。
          そのためには高麗寺山の上に城郭遺構があっては困るので、見て見ぬふりをする。という
          学術ではぜひとも避けるべき思考ルートが浮かび上がるのです。
           ちなみに、高来神社境内の東側には土塁地形があり、その外側には御供水という湧き水
          が今もこんこんと湧き出ています。ここにかつて高麗寺の麓の施設があり、高麗寺山と同様
          に取り立てられたり、簡単な防備が施されていたとしても不思議ではないとは思われます。


           
 花水橋から高麗寺山を望む。
 左手奥の峰が大堂。手前は東天照。
大堂の削平地。権現社跡か。 
 大堂削平地背後の土塁。
 神社建築に伴うものか。
大堂1段下の平場。 
 大堂西側の1条目の堀切。
同じく2条目。 
 2条目の堀切から竪堀状に続く地形。
 大堂東側1条目の堀切跡と思しき地形。 
 同じく2条目と土塁跡と思しき地形。
同じく堀跡か。 
 東天照ピーク。
 こちらは城砦の造作は見られません。
高来神社と大堂。 
 高来神社東側の土塁状地形。
同地形を外側から。 
 同地形東側の御供水。

 
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