山下長者屋敷(やましたちょうじゃ) | |
別称 : 山下長者宅蹟 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 山下長者か | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : 東海道本線平塚駅よりバス 「下万田」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 『新編相模国風土記稿』には山下長者の宅蹟とあるが、山下長者なる人物の詳細に ついては不明である。当地は、『曽我物語』のヒロイン虎女(虎御前)ゆかりの地としても 知られている。虎女は大磯の長者のもとで生まれ育ち、平塚の遊女となっていたところ、 曽我兄弟の兄十郎祐成と恋仲となったとされる。 建久四年(1193)、十郎祐成は弟五郎時致とともに父の仇工藤祐経を討ったものの、 仁田忠常によって斬殺された(曽我兄弟の仇討ち)。その後、虎女は当地に戻り、小庵 を結んで兄弟の供養につとめたといわれる。 屋敷の脇には虎女の庵跡とされる史跡があるが、山下長者および屋敷との間に関連 があるのかは定かでない。 <手記> 山下長者屋敷は高麗山の北西麓、高根川が西側を流れる微高地にあります。断続的 に堀や土塁がよく残っていて、これらをつなぎ合わせると、北東鬼門方向に隅欠けをもつ 方形の館であったことがうかがえます。とくに南側と東側に開いた門は、当時と同じ位置 にあると思われ、南門の脇に説明板が設置されています。東門を出たところには、虎女 住庵跡の碑もあります。屋敷内は個人宅となっているため、自由に歩き回ることはでき ません。 山下長者屋敷については、『曽我物語』にまつわる虎女と大磯の長者の話から、鎌倉 時代の館跡と推測されています。残存遺構から見ても、そう時代を下るものではないと 思われます。現地説明板にも、「鎌倉時代の初めごろ造られた、初期の館形式に属する もの」とあります。 これに対し、『日本城郭大系』では山下長者屋敷を、永正七年(1510)の権現山城の 戦いに際して北条早雲(伊勢宗瑞)が「高麗寺山」とともに取り立てた「住吉要害」である としています。この説は、「住吉要害」を逗子市の住吉城とする従前の説に対して疑義を 呈し、@当屋敷が小城塞の機能をもっているA近くに住吉社や住吉川があるB地勢上 住吉城よりふさわしいという3つの点を根拠として唱えられています。 ただ、『大系』の住吉要害説は少々結論ありきの断定口調に過ぎている感が否めず、 留保が必要と思われます。第一に、当屋敷は私からみればむしろどう見ても館・屋敷の 域を出るものではなく、城とも、まして要害ともいえません。付近で同じく要害と呼ばれる 七沢城や真田城と比べても、ほとんど要害性は感じられません。第二に、現地を歩いて みても地図とにらめっこしても、近辺には住吉社や住吉川なるものはありません。周辺で 最も近い住吉神社は、隣の茅ヶ崎市の南湖にあります。 3点目については、たしかに権現山城に直行するのであれば、逗子の住吉城はただの 寄り道になってしまいます。ですが、小田原・権現山間で唯一の障害である三浦氏との 関係を考えれば、そこまで不自然とはいえないと思われます。当時、三浦氏は平塚市内 にある岡崎城に三浦道寸(義同)、そして三浦半島に息子の義意と2つの拠点に分かれ ていました。そこで、道寸に対しては高麗寺山、義意に対しては逗子の住吉城を押さえ として取り立て、権現山への後詰ルートを確保しようとしたと考えれば、充分に妥当性を 担保できるといえるでしょう。当時、鎌倉は扇谷上杉氏の勢力下にあったものと推察され ますが、政盛謀反の報を受けて一時的に空白が生じ、早雲に占拠されたとしても不思議 ではないでしょう。 ただし、逗子の住吉城が住吉要害であると断定するだけの材料も、またありません。 高麗寺山とセットで、付近に住吉要害があったと考える見方までは、否定はできないで しょう。ですが、それが山下長者屋敷であったかというと、私はその可能性は低いものと 思っています。 |
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南側土塁前に立つ山下長者屋敷跡説明板。 | |
南側土塁。左手奥に南門があります。 | |
西側の土塁と堀。 | |
東側の堀。 | |
虎女住庵跡。 |