倉賀野城(くらがの)
 別称  : 雁城
 分類  : 平城
 築城者: 倉賀野氏
 遺構  : 堀跡
 交通  : JR高崎線・八高線倉賀野駅徒歩10分


       <沿革>
           有力国人倉賀野氏の居城である。倉賀野氏は武蔵七党の1つ児玉党の流れを汲み、
          有道(児玉)経行の四男行高の三男三郎高俊にはじまるとされる。建久元年(1190)に
          源頼朝が上洛した際の随行員として倉賀野三郎の名がみえ、このころまでには倉賀野
          に倉賀野氏が入植していたものと考えられている。
           一般に、南北朝時代に倉賀野光行ないしその甥とされる頼行が館を改修して倉賀野
          城を築いたといわれるが、確証はない。15世紀に入り、倉賀野氏は長野氏らといわゆる
          上州一揆を組み、山内上杉氏に属するかたわら独自の勢力を築いていった。
           天文十五年(1546)、倉賀野行政は主君山内上杉憲政に従って河越城攻めに出陣し、
          河越夜戦で討ち死にした。跡を行政の子為広が継いだが、倉賀野氏の有力寄騎である
          倉賀野十六騎がこれを補佐することになった。当主が幼年であったからといわれるが、
          永禄三年(1560)には為広の子とされる左衛門五郎尚行が城主となっていることから、
          為広が幼年であったとは考えにくい。おそらく、為広は若くして没し、その後をまた幼児
          であった尚行が継いだものと推測される。
           翌永禄四年(1561)に上杉政虎(謙信)が小田原城攻略に失敗すると、倉賀野城は
          対する上杉氏の最前線として武田・北条両氏の攻撃に晒された。『上州故城塁記』に
          よれば、これに先立つ同二年(1559)、十六騎の中でも有力家臣であった金井秀景が
          武田信玄に降っている。それでも、尚行と他の十六騎はよく防ぎ、同六年(1563)には
          木部に布陣した信玄勢が倉賀野城へと迫ったが、これを撃退した。
           しかし、永禄八年(1565)に武田軍によって倉賀野城は攻め落とされ、尚行は謙信を
          頼って落ち延びた。このときの謙信の書状には、尚行が若輩ゆえに重要な地を奪われ
          たと書かれており、悔しさのにじみ出る内容となっている。倉賀野城主には大熊伊賀守
          が任じられ、さらに飯富・真田・相木・望月といった武田氏の武将が送り込まれた。
           元亀元年(1570)、金井秀景が新たに倉賀野城主となり、秀景は信玄の命で倉賀野
          氏を継承し、倉賀野淡路守秀景と名乗った。天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、
          秀景は上州へ進出した織田信長の重臣滝川一益に従った。しかし、同年中に本能寺の
          変が起こると、北条氏直が大軍を率いて北上してきた。六月十九日に行われた神流川
          の戦いでは、倉賀野氏は滝川勢として奮戦し、秀景の子らが討ち死にした。同戦いで
          敗れた滝川勢は倉賀野城へ撤退し、その後厩橋城へと退いた。一益は厩橋城ないし
          箕輪城で、上州諸将との別れの宴を催したとされるが、『日本城郭大系』ではその場所
          を倉賀野城と推測している。一益の撤退後、倉賀野氏は北条氏に降伏し、倉賀野城に
          は北条家臣垪和康忠が送りこまれ、上州の統治業務にあたった。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際して、秀景や康忠は小田原城に籠城しており、
          倉賀野城の動向については定かでない。碓氷峠を越えて進軍してきた前田利家・上杉
          景勝軍に落とされたものと推測されるが、戦闘があったか否かは不明である。北条氏
          が滅ぶと、倉賀野城は廃城となった。


       <手記>
           倉賀野城は、烏川の屈曲部に削られた河岸の断崖上に位置しています。江戸時代
          には中山道倉賀野宿が置かれ、本丸下には船運の河岸が開かれていました。上州の
          中央部への入口にあたり、古くから交通の要衝であったと思われます。
           旧縄張り図によると、倉賀野城は上の地図に示したような矩形に近い本丸を中心に、
          その外側に二の丸、三の丸、総郭と梯郭式に曲輪が広がっていました。現在、本丸を
          はじめ城域のほとんどは開発されてしまっています。烏川に沿って細長い公園があり、
          その一画に立派な城址碑があります。ここは本丸の西側外にあたり、本丸一帯は完全
          に宅地化されていて遺構は見当たりません。
           倉賀野城の特徴は、曲輪を形成する堀の多くが天然の沢を利用して設けられている
          という点です。それらの沢のいくつかは、現在も生活道路としてトレースすることができ
          ます。1つは、本丸の東に斜めに走る谷筋の道で、これが二の丸と三の丸の間の堀に
          あたります。倉賀野神社裏手をカーブしながら進む道も、総郭の堀にあたり、倉賀野城
          の最西辺となります。さらに、倉賀野小学校の南から始まる、かつての川筋を転用した
          堀底道状の道路があり、この川筋の九品寺南東付近から烏川との合流点までの間が
          かつての城の最東端の堀跡となります。この東西両端の堀を結ぶ、中山道の1つ北側
          の生活道路(九品寺門前の通り)が、北辺の堀跡です。
           これらを結ぶことによって、上の地図に示したような城の外郭ラインを復元することが
          でき、明確な遺構とはいえないものの、当時の城の姿を想像する貴重なよすがである
          と思われます。

           
 倉賀野城址碑。
本丸跡付近から烏川の流れを見下ろす。 
 二の丸と三の丸の間の堀跡の道路。
倉賀野神社裏手の総郭堀跡の道路。 
 最東端の堀跡の道路。


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