栗隈城(くりくま)
 別称  : 湯舟城
 分類  : 山城
 築城者: 田村親光
 遺構  : 曲輪、土塁
 交通  : 琴電琴平線栗熊駅徒歩40分


       <沿革>
           応安元/正平二十三年(1368)に西長尾城へ居城を移した長尾大隅守元高は、8人いる息子
          のうち四男の田村上野介親光を栗隈村に配した。栗隈城は親光によって築かれたとされ、親光
          の跡は元高の六男・上野介が継いだ。
           本家の長尾氏が長宗我部元親に降伏すると、栗隈城も開城してそのまま廃城となったとみら
          れている。ただし、『日本城郭大系』や現地説明板では元親の西長尾城攻略を天正十年(1582)
          のこととしているが、長尾氏は天霧城主香川氏の仲介で同七年(1579)に降っている。


       <手記>
           栗隈城は、大高見峰から東大束川沿いに延びる支峰上に築かれています。北東麓の十字路
          に立派な説明板があり、付近には駐車スペースもあります。栗隈城の下部には星濡城田村城
          城ノ岡城大流城という4つの小さな支城があり、説明板奥から整備されている登城路は大流城
          を除く3支城を横目に主郭北西尾根の曲輪群へ回ります。ただ、私は3支城へ向かう手前で主郭
          北東尾根の曲輪群へショートカット直登しましたが、結果的には一筆書きで巡れて正解だったと
          思います。
           主郭は南北に細長く、切岸は比較的しっかりしているものの、土塁や堀は見受けられません。
          主郭部の奥にはヤグラと呼ばれる小ピークがあり、主郭との比高差はほとんどないため、物見と
          いうよりは狼煙台や詰段的な用途であったと推察されます。現地の説明では、このヤグラの前後
          にそれぞれ三重の堀切があるというのですが、三重堀切はおろか城内には私の見た限り明瞭な
          堀跡は一つもありませんでした。
           結局のところ、曲輪を連ねただけの単調な構造ではありますが、4つの支城を従えていることも
          あり、それこそ天正十年(1582)の羽柴秀吉による四国攻めまでは存続したのではないかと拝察
          されます。あるいは、『大系』の記述における西長尾城の落城とは、元親軍ではなく秀吉勢の誤り
          とも考えられるでしょう。ちなみに、現地の説明板は『大系』と表現が非常に似通っています。

           
 西長尾城跡へ向かう途中から栗隈城跡を望む。
 ドームの右側奥らへんのようです。
登城口の説明板。 
 北東尾根曲輪群の切岸。
北東尾根曲輪群のようす。 
 北東尾根曲輪群の先端部。
主郭を見上げる。 
 主郭切岸。
主郭後方のようす。 
 主郭先端部のようす。
ヤグラ。 
 ヤグラの頂部。
ヤグラを背後から。 
 ヤグラ背後の稜線。
 三重堀切があるというのですが…。
北西尾根曲輪群。 
 同上。


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