水海城(みずうみ) | |
別称 : 旧水海城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 簗田氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東北本線古河駅よりバス 「新田水海」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 古河(鎌倉)公方重臣簗田氏の居城として知られる。簗田氏は常陸平氏大掾 氏流で、平良助が下野国簗田郡簗田御厨に住したことに始まるとされる。元中 三/至徳三年(1386)の小山若犬丸の乱後に下河辺荘が鎌倉公方の御料所 となると、簗田氏がその被官として同荘に赴いたと考えられている。水海城は、 入植した簗田満助からその孫の政助の代までの間に築かれたとみられている が、詳しい築城年代は定かでない。 満助の子持助か、さらにその子成助(政助の兄)のころに、簗田氏は関宿城 を築いて居城を移したと伝わる。両城の築城者の解釈によっては、関宿城より 水海城の方が後に築かれたことになるが、一般的には水海から関宿へと進出 したと考えられている。関宿築城後は、水海には簗田氏の分家が在城したと される(水海簗田家)。 天文十五年(1546)の河越夜戦で、古河公方足利晴氏は北条氏康に敗れ、 同二十三年(1554)に古河城を攻められて降伏した。氏康は自分の妹と晴氏 の間に生まれた義氏を新たな古河公方としたが、永禄三年(1560)に越後の 長尾景虎(上杉謙信)が関東に出兵すると、簗田晴助は自身の姉と晴氏との 子で義氏の異母兄にあたる藤氏を擁立して反旗を翻した。以後10年以上に わたって、関宿城を中心に激しい攻防が繰り広げられたが、天正二年(1574) についに刀尽き矢折れ、簗田氏は北条氏に降伏した。晴助・持助父子は関宿 を明け渡して水海に退いたが、このときにそれまでの水海城の北に新しい城 を築いたとされる。旧来の水海城には、分家の水海簗田氏が残った。 旧水海城のその後については詳らかでないが、遅くとも天正十八年(1590) の小田原の役で簗田氏が禄を失ったときまでには廃されたものとみられる。 <手記> 国道4号線の新利根川橋北詰北側にかつて内城や御城、蔵屋敷といった 小字があったとされ、旧水海城の跡とされています。ただし、遺構等は発見 されておらず、地名のみを頼りとして存在が推定されている城です。現在は 一面よく整備された圃場となっていて、城跡らしきものはなんらありません。 江戸時代以前の利根川はずっと西側を東京湾に向けて流れていて、水海 は三方を深谷沼・南水海沼・釈迦沼の3つの沼沢地に囲まれていたと推定 されています。これらの沼は、香取浦から銚子沖へ通じる常陸川の源流域 とされ、水海の名の通りの地形だったようです。 すなわち、常陸川ルートの物資と東京湾からの物資の往来を押さえる重要 な地域であったと考えられます。 |
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比定地現況。 | |
比定地から新水海城周辺を望む。 |