鳥取城(とっとり)
 別称  : 久松城、久松山城
 分類  : 山城
 築城者: 山名誠通か
 遺構  : 門、石垣、堀、井戸跡
 交通  : JR山陰本線鳥取駅よりバス
      「西町」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           天文十四年(1545)、因幡守護山名誠通の命を受けた家臣武田国信によって築かれたとされる。
          実際の縄張りは、国信の家臣田原某が行ったと伝わる。誠通は、このころ宗家である但馬山名氏
          と対立し、尼子晴久に属して久通と名を改めた。鳥取築城については、晴久が「鳥取山下」で但馬
          山名氏と戦った記録があることから、山名氏統一を図る但馬山名氏の山名祐豊により、因幡攻め
          の橋頭堡として築かれたとする説もある。ただし、「鳥取山下」を晴久を攻めたからといって、祐豊
          が鳥取城の築城者であるとするのは根拠薄弱といえる。また、武田国信は、鳥取築城後はその名
          がみられなくなるが、一説には鳥取城を堅固に築きすぎたために誠通の疑念を呼び、謀殺された
          とされる。しかし、同十七年(1548)に誠通が祐豊に攻め殺された後も、国信の子高信が鳥取城番
          を務めていることから、築城後まもなく国信ないし高信が祐豊に通じて、城ごと寝返ったとも考えら
          れる。ちなみに、因幡武田氏は若狭武田氏の一族とされるが、詳しい系譜は不明である。
           誠通死後、祐豊は弟豊定を因幡に送り込んだ(豊定の因幡入国自体は、誠通の死亡年とされる
          天文十七年以前とみられている)。永禄三年(1560)に豊定が死ぬと、跡を子の豊数が継いだが、
          同六年(1563)には高信が鳥取城で反旗を翻した。同年四月三日、高信は鳥取城に攻め寄せた
          豊数軍を当時の大手口とされる湯所口で撃破し(湯所口の戦い)、因幡山名氏に対する優位を勝ち
          取った。同年中に、高信は豊数を鹿野城へ逐い、傀儡の主君として山名豊弘(山名氏の系譜上の
          位置は不明)を擁立し、因幡の最大勢力へとのし上がった。
           しかし、その後因幡の国人衆の掌握が思うように進まず、因幡武田氏はついに戦国大名化する
          ことができなかった。天正元年(1573)八月、高信は山中幸盛ら尼子再興軍や但馬山名氏の支援
          を受けた豊数の弟豊国に完敗し(鳥取のたのも崩れ)、鳥取城を逐われた。豊国は居城を鳥取城に
          移し、その後高信を謀殺したとされる。ただし、近年高信の死を伝える小早川隆景の同年五月四日
          付の書状写が発見され、豊国の復権や高信の死の経緯について疑問が呈されている。
           同天正元年末、豊国は吉川元春の攻撃を受け、毛利氏に降伏した。このころ、豊国は天神山城
          にあった三階櫓を、鳥取城に移築したともいわれる。翌天正二年(1574)、尼子再興軍が鳥取城を
          攻撃し、豊国は再び尼子氏に降った。城主には市場城主毛利豊元が入ったともいわれる。豊元は、
          安芸毛利氏とは同族だが、別系統の因幡国人である。翌天正三年(1575)には、再び毛利氏が城
          を奪還した。
           天正八年(1580)、織田信長の家臣羽柴秀吉が因幡へ侵攻し、鳥取城を攻囲した。豊国は3か月
          の籠城戦に耐えたが、突如として単身秀吉に降伏した。豊国の娘ないし妻が人質に取られたため
          とも、豊国の変節ぶりに憤った重臣中村春続や森下道誉が追い出したためともいわれる。秀吉は
          一旦退き、毛利家の山陰方面担当の吉川元春は牛尾元貞を城主に送った。その後、城主は元春
          家臣の朝枝春元・市川雅楽允に替えられたが、春続・道誉らはより地位の高い武将の派遣を要求
          した。翌九年(1581)、元春は同じ吉川一族で石見吉川氏吉川経安の子経家を送り込んだ。経家
          はこのとき討ち死にの覚悟をもって、自らの首桶を用意して入城したと伝わる。近年、経家入城の
          時点では豊国はまだ鳥取城に在城しており、その後織田氏との内通が発覚したために、城を出奔
          したとする説が呈されている。
           経家は長期の籠城戦を想定し、すぐに国内の兵糧米の徴収にとりかかった。しかし、秀吉の命で
          若狭の商人たちが因幡中の米を買い占めていたため、籠城に必要な量は集まらなかった。また、
          同九年(1581)七月に実際に秀吉軍が来襲すると、城兵2千人弱に加えて近隣の農民ら非戦闘員
          が大挙して入城し、総勢4千人ほどが城に籠ることになった。『陰徳太平記』などによれば、これも
          秀吉による企てで、鳥取周辺の村での掠奪を厳しくし、わざと農民らを城へ追いやったとされる。
           秀吉は、鳥取城とは峰続きの帝釈山(後に太閤ヶ平と呼ばれる)に本陣を構え、2万の軍兵で城を
          完全に包囲した。包囲の柵網の総延長は12〜20qに及んだとされ、1qごとに3層の櫓が建てられ
          たとも伝わる。こうして始まった世にいう「鳥取城の渇え殺し」に、城内では餓死者の死肉を漁るほど
          の地獄絵図を呈した。100日余の籠城戦の後、ついに鳥取城は降伏した。秀吉は春続・道誉のみ
          切腹を要求し、経家については助命・送還するとしたが、経家はこれを肯んじず自害した。籠城兵に
          は粥が振る舞われたが、長期の絶食で消化器が弱っていたところに大量の食物を摂取したため、
          腹痛死する者が続出したと伝わる。
           秀吉は、与力宮部継潤を新たな城将に任じた。天正十三年(1585)、継潤は豊臣姓を賜った秀吉
          から改めて鳥取城主として5万石を与えられた。宮部家はその後8万石に加増され、継潤の子長房
          が跡を継いだ。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、長房は西軍に属し、東軍の亀井茲矩に攻められた。しかし、
          堅城の鳥取城は関ヶ原の本戦の終結後もようとして落ちなかった。茲矩は本戦後に寝返った斎村
          政広を誘って城下を焼き討ちにし、ようやく開城させた(ちなみに、長房は城にはいなかった)。戦後、
          この焼き討ち行為を家康に咎められ、政広は切腹となった。茲矩が焼き討ちの全責任を政広に負わ
          せたためといわれる。
           戦後、鳥取城には池田恒興の三男長吉が6万石で入城した。長吉は、慶長七年(1602)から9年
          の歳月をかけて鳥取城を改修し、山麓に陣屋造りの近世城郭を整備した。元和三年(1617)、長吉
          の子長幸は備中松山へ転封となり、代わって長幸からみれば宗家筋にあたる池田光政が、32万石
          で姫路から移ってきた。鳥取城も、32万石の大身大名の居城にふさわしい規模に改修された。寛永
          九年(1632)、光政の従兄弟の池田光仲が、同じ32万石で岡山から鳥取へ移封され、入れ替わりで
          光政が岡山藩主に転じた。光政・光仲とも、山陽筋から山陰筋の鳥取へ移されたのは、藩主継承時
          に幼少であったことが理由とされる。以後、光仲系池田家が12代続いて明治維新を迎えた。ちなみ
          に、最後の藩主慶徳は最後の将軍徳川慶喜の異母兄にあたり、藩財政の窮乏を理由に廃藩置県を
          自ら率先して願い出たことで知られる。

          
       <手記>
           鳥取城址のある久松山は、摩仁山を最高峰とする緩やかな山塊の一支峰ですが、その特徴的な
          形状で、ほとんど独立山のように鳥取市街の背後にそびえています。海抜ほぼ0mからの直登を強い
          られることも、この山を堅城たらしめている一因と思われます。
           現在の鳥取城址は、山頂の山上之丸部と、山麓の陣屋部に分かれています。陣屋部には、多くの
          堀や石垣が残っており、32万石の大大名の首府にふさわしい景観を見せています。私が訪れたとき
          には、ちょうど石垣の修復・発掘事業が半ばといったところで、本丸周辺の石垣は綺麗に積み直され
          ていました。ちなみに、鳥取城の曲輪の呼び名は時とともにちょくちょく変わっているのですが、ここ
          では御三階櫓のあった曲輪を本丸、山頂の天守があった曲輪を山上之丸と呼ぶことにします。本丸
          は、現地説明板によれば、かつては尾根先であったところを、石垣の石切り場を兼ねて切り開き、
          曲輪としたものだそうです。となると、宮部氏時代までは天球丸から三の丸にかけては、尾根と沢に
          挟まれた谷戸地形にあったことになります。したがって、少なくとも宮部氏時代には、本丸よりも高い
          位置にある天球丸から、その下の三の丸にかけてが居館部だったのではないかと推測されます。
          事実、天球丸からは宮部氏時代のものと推定される石垣遺構が見つかっています。
           この天球丸の石垣には、江戸時代後期に「巻石垣」と呼ばれる球状に積まれた石垣があったこと
          が、古絵図から明らかになっています。巻石垣は主に河川や港で用いられる技術で、石垣の補強に
          使用された例としては極めて珍しく、これが復元されたことで新たなスポットとなりそうです。
           天球丸の脇から、山上への登山道があります。急峻な九十九折れの道の途中には、虎口の跡や
          削平地跡が散見されます。山伏井戸跡に着くと、頂上まであと一息です。山上之丸は、大きく分けて
          3段の曲輪と帯曲輪から成っています。山上の遺構にしては石垣がよく残っているのですが、藪化が
          進んでおり、陣屋部の整備が済み次第、こちらも手入れしていただければと思います。
           天守台周囲の樹木は整理されており、市街地や日本海、そして鳥取砂丘などを眼下に収めること
          ができます。当時の話に砂丘が登場することはありませんが、やはり利用価値のない砂地には興味
          がなかったのでしょうか。
           時間があれば太閤ヶ平など周辺の遺構も訪ねたかったのですが、この日は台風上陸前日で、頂上
          までは天気がもってくれたのですが、麓におりてまもなく大雨になってしまいました。

           
 久松山遠望。
 中央下の櫓台石垣が御三階櫓跡。
山麓の水濠。 
 北ノ御門跡。
右膳丸下の仕切門。 
一応、唯一の現存遺構(戦後に大風で一度倒壊)。 
 修復された御三階櫓石垣。
御三階櫓跡。 
 調査・修復中の二の丸鉄御門跡付近のようす。
天球丸から三の丸への削平地群を望む。 
 天球丸石垣の復元巻石垣。
二重の建物礎石が発見された天球丸三階櫓跡。 
 天球丸を北西側から望む。
登山口にある八幡宮跡。 
 登山道中の虎口跡。
山吹井戸跡。 
 山上之丸帯曲輪の石垣。
山上之丸中段の曲輪。 
 同下段の曲輪。
山上之丸上段の石垣を望む。 
 上段の曲輪虎口。
山上之丸天守台。 
 山上之丸の井戸跡。
 池田長吉掘削と伝わります。
天守台からの眺望その1。千代川河口方面。 
 その2。市街地方面。
山上之丸から太閤ヶ平を望む。 


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