ランツクルーナ要塞 ( Landskrona Slott ) |
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別称 : ランツクルーナ城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: クリスチャン3世 | |
交通 : ランツクルーナ駅よりバスに乗り、 「ロートヒューストルイェット(市役所広場)」 下車徒歩5分 |
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地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1549年、デンマーク国王クリスチャン3世によって城塞の建設が始められた。今に残る内郭の 建物は、1560年までに完成した。 デンマークとスウェーデンの間で1643年に始まったトルステンソン戦争中の翌1644年、ランツ クルーナ城はスウェーデンのグスタフ・ホルンによって攻め落とされたが、翌年にはデンマークに よって奪回されている。 1658年には、北方戦争にともなうロスキレ条約によって、ランツクルーナを含むスコーネ地方が スウェーデンに割譲された。スウェーデンは1667〜75年にかけて城を拡張し、いくつもの稜堡を もつ星型要塞に改めた。1659年には、建築家ニコデムス・テッシンが街全体を要塞化し、海上に 別個の星型要塞を築くプランを、1680年には「スウェーデンのヴォーバン」とも呼ばれるエリク・ ダールベリがやはり街ごと要塞に取り込むプランを提示したが、いずれも予算上の関係から実現 しなかったとされる。 デンマークがスコーネ地方回復を期してスコーネ戦争を仕掛けると、1676年にデンマーク軍が ランツクルーナに上陸し、要塞を制圧した。翌1677年にはデンマークとスウェーデンの間でランツ クルーナの戦いが行われ、敗れたデンマーク軍は要塞に退いた。その後も1679年にルンド条約 で講和が成立するまで、ランツクルーナはデンマークのスコーネ上陸拠点として活用された。 同条約によってスコーネはスウェーデン領に戻されたが、ランツクルーナは大北方戦争さなかの 1711年に再びデンマークによって占領された。 戦後は再々度スウェーデン領となったが、ランツクルーナ要塞が軍事施設として使われること はなかった。その後は監獄として長らく利用され、今日では一部が博物館となっている。 <手記> スウェーデンのスコーネ地方とデンマークの首都コペンハーゲンのあるシェラン島は、細長い エーレ海峡を挟んで対峙しています。そのスウェーデン側の南端にはマルメーが、北端には ヘルシンボリがあり、ちょうどその中間にランツクルーナがあります。 とくに観光で売っている街というわけでもなく、私も知らないところでした。旅行のプランを考え ながらグーグルマップを眺めていたところ、ふと地図上でもはっきりそれと分かる星型要塞が 2つ目に入り、これは立ち寄らねばと思い立った次第です。 ランツクルーナ要塞は、現在も大きく三重の堀に囲まれているようすが見てとれます。そして、 19世紀半ばごろの縄張り図と比較すると、市街地と接している部分以外はほとんどそのまま 残っていることが分かります。訪れる前から興奮してしまいますが、実態に訪ねるとその美しさ にさらにヒートアップしてしまいました。観光地としてはほとんど無名でありながら、城跡の保存 としてはほぼ完ぺきというような保存状態です。 中心の内郭はマルメー城と同様の四隅にドラム状のバッテリーをもつ建物群になっています。 南西隅の円塔が無料の資料館になっているほかは、一般観光客がその場で立ち入ることは できないようです。ただ、事前にツアーに申し込めば、館内も見学できるようです。 そのひとつ外側は、4つの稜堡が四方に置かれ、さらにそれぞれの間に計4つの出丸稜堡が 配置されています。十字手裏剣を2枚重ねたような形になっている訳ですが、市街地側の出丸 だけが失われ、あとの7つの稜堡が残っています。 三重目の堀はかなりギザギザで形容しがたく、またその内側には普通の住宅が結構建って います。とはいえ、たいていは堀や塁の一部が残っていれば十分というところ、復元したわけ でもなく、当時のままでこれほど完全な姿をとどめているというのは、ヨーロッパ広しといえども 珍しいのではないでしょうか。 残念ながら、ランツクルーナにもう1つある要塞クレーエンは、足を踏み入れる機会がかなり 制限されていますが、城跡好きならこちらだけでもじっくり時間をかけて感動できることでしょう。 |
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内郭を望む。 | |
内郭の建物。 | |
内郭内のようすを俯瞰。 | |
外郭にある建物。 一部はカフェとして利用されています。 |
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外郭北西の稜堡と濠。 | |
同じく南西の稜堡と濠。 | |
海に面した稜堡。 | |
最外郭の濠。 | |
北の出丸稜堡。 | |
稜堡の濠が交わるところ。 | |
北東の稜堡。 | |
東の出丸稜堡。 こちらは空堀となっています。 |
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東辺の最外郭の濠。 |