蒔田城(まいた)
 別称  : 吉良氏館
 分類  : 平山城
 築城者: 吉良頼康
 遺構  : 削平地
 交通  : 横浜市営地下鉄蒔田駅徒歩10分


       <沿革>
           奥州管領として活躍した東条吉良氏は、鎌倉公方足利基氏に招かれ上野国飽間郷を
          領した。貞治五/正平二十一年(1366)、吉良治家は基氏から武蔵国世田谷郷を与え
          られ、移り住んだとされる。このときに蒔田郷も与えられたものとみられているが、確証は
          ない。一般的に、蒔田城は治家の6代子孫の頼康によって築かれたと考えられている。
          頼康は北条氏綱の娘を娶り、「蒔田殿」ないし「蒔田御所」とも尊称されていた。これらの
          尊称が頼康の父成高には用いられていないことも、頼康築城説の論拠となっているもの
          と思われる。
           永禄十二年(1569)に武田信玄が北条氏領へ攻め込んできた際、『北条記』によれば
          武田軍は深大寺から筋違に「かたびら(横浜の帷子川沿いと考えられている)」へと進軍
          した。このとき、青木城主多目周防守は居城を捨てて蒔田城の加勢に向かったとされる。
          結局、信玄は蒔田を攻めることなく小田原城へと向かったが、北条家中が貴種としての
          吉良氏をいかに重要視していたかがうかがえる。
           頼康は堀越貞基の子貞朝を養子とし、貞朝は北条氏康の娘を娶って氏朝と名乗った。
          氏朝の代の天正十八年(1590)に小田原の役が起こり、北条氏が滅ぶと吉良氏も所領
          を失った。蒔田城もこのときに廃城となったと思われる。
           ちなみに、氏朝の子頼久は関東に入国した家康に仕え、姓を蒔田に改めた。江戸幕府
          が成立すると高家旗本となり、同族の西条吉良氏が吉良義央の事件で改易となると、
          吉良姓に復姓した。


       <手記>
           蒔田城は、大岡川に臨む舌状の丘陵上に築かれた城で、現在は横浜英和女学院と
          なっています。校門の脇に成美学園遺跡の説明板があり、そこに蒔田城址についても
          触れられています。それによれば、北側斜面にわずかに腰曲輪の跡と思われる部分が
          あるということですが、今では斜面にもびっしり住宅が立ち並んでいるので、どこが当該
          の部分なのか判別するのは困難です。
           また、校門の北側には教会堂があり、ここが本丸の櫓台だったともいわれています。
          ともあれ、学校建設により遺構はほぼ消滅してしまったようです。
           ところで、『多摩丘陵の古城址』の著者田中祥彦氏は、蒔田領は北条氏によって頼康
          に与えられたものだと推測したうえで、蒔田は交通と軍事の両面で重要な土地ではなく、
          北条氏が名族というだけの吉良氏を目の届きやすい寒地に押し込めたのだとする説を
          唱えています。ですが、蒔田の眼前を旧鎌倉街道が走っていて、おそらく当時の東山道
          の脇往還であったと考えられます。また、蒔田の南には杉田港、北には神奈川港(青木
          港)があり、軍事的にも前線に遠いというわけではないと思います。蒔田周辺は大岡川
          が形成する緩やかな谷間であり、字のごとく生産性も比較的高かったのではないかと
          推察されるのです。蒔田領は、田中氏が考えるとおり北条氏に与えられたものかもしれ
          ませんが、それは決して僻地でただ飼っておこうというのではなく、名族吉良氏に対する
          一定の配慮と敬意と利用価値の認識によるものであったと、私は考えています。

           
 女学院校門脇の説明板。
櫓台跡とされる礼拝堂。 
 おまけ:蒔田城址から横浜市街を望む。


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