真野古城(まのこ)
 別称  : 新城、杉の館、田村堀切
 分類  : 平山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 削平地、堀、土塁
 交通  : JR常磐線鹿島駅徒歩25分


       <沿革>
           真野古城とは、『日本城郭大系』によれば「真野郷にある古い城跡」という意味で現代に
          付けられたものである。現地の小字は新城であり、江戸末期に編纂された『奥相志』には
          「新城 古塁あり 杉館と曰ふ」とあり、当時の呼称としては「杉(の)館」であった可能性が
          高いと思われる。杉館については、『大系』に杉大隅の居館とあるが、いかなる人物かは
          詳らかでない。


       <手記>
           真野古城跡は新城公園となっていて、古城なのに新城という妙なことになっています。
          さらに公園とはいうものの、震災の後は整備もままならないということで、一面のすすき
          野原となっていました。舌状の峰先を利用した城で、縁には土塁が残るということですが、
          私の訪れた晩秋は、そこにすらとてもたどり着けるような状態ではありませんでした。冬場
          なら、ワンチャンあるのかもしれません。峰の付け根は深く掘り切られているのですが、
          そんなわけで公園から堀切に至るのも困難です。
           堀切を見るには、南東麓の集落から上の地図にある細道を上がらなけらばなりません。
          登った先には広大な平場があり、その一部が畑になっています。運よくその畑で女性が
          仕事をされていたのでお話をうかがうと、かつては一面耕作地だったそうですが、今では
          2人しかやっていないとのことでした。
           堀のことをうかがうと、果樹の奥へ行けば道があるが、全然行っていないのでどうなって
          いるか分からないとのことでした。とりあえず行ってみると、入り口は少し藪でしたがその
          先は堀脇の斜面まで普通に歩けました。かなり深い堀切で、堀底の方はまた荒れていた
          ので諦めました。
           平場に戻って西進し、林の奥へ行く道を伝うと、地図の左手に示した田村堀切(ぼっきり)
          という堀切があります。かなり規模が大きく、内側は土塁となっています。ただ、その周囲
          はとくに曲輪形成されているようすがなく、少々謎な遺構ともいえます。
           畑のある平場については、丘陵の上に忽然と現れるので違和感があります。耕作地を
          得るためにわざわざここだけ均すというのもずいぶん手間なので、もともとある程度の平場
          があったとみるべきではないかと思います。そう考えると、田村堀切と併せてここに簡易的
          な駐屯地があったとする見方ができるのではないでしょうか。
           また、新城に対応する古城としては、1つ西側の桜平古館ないし南東の中館(江垂館)
          が充てられるでしょう。すなわち、時期や目的は定かでないものの、これら両館があった
          ところに新城が付加的に取り立てられ、陣城的な性格をもつ城館群が形成されたのでは
          ないかと、個人的に推察しています。そうすると、可能性としてまず考えられるのは、天文
          十二年(1543)の黒木城主黒木信房・中村城主中村義房兄弟の反乱です。2人は田中城
          を攻め落としたものの、まもなく伊達氏との戦いから軍を返した相馬顕胤に攻められ降伏
          します。このとき、顕胤は中館を修築して本陣としたとされています。とすれば、桜平古館
          や杉館も合わせて取り立てられたとする推測は、十分に成り立つでしょう。
           ちなみに、現地説明板では古代郡衙との関連を前面に押し出していますが、今に残る
          遺構は明らかに戦国時代のものです。「真野古城」と銘打ってしまったために、そちらに
          合わせた付会と思われますが、さすがに無理筋でしょう。

           
 真野古城跡説明板。
新城公園のようす。 
 公園先端側のようす。
新城公園南側の旧耕作地の広大な平場。 
 新城公園付け根側の堀切。
田村堀切。 
 田村堀切の城側の土塁。


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