真里谷城(まりやつ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 武田信長か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : 圏央道木更津東ICから車で15分


       <沿革>
           読みは「まりがやつ」とも。上総国に勢力を誇った真里谷武田氏(真里谷氏、上総武田氏)
          の居城である。上総武田氏は甲斐守護武田信満の次男信長にはじまる。甲斐国内の権力
          争いに敗れた信長は鎌倉府に降伏・出仕し、その後は古河公方足利成氏に仕えた。享徳
          三年(1454)に勃発した享徳の乱に際し、信長は古河公方方として功を挙げたため、康正
          二年(1456)に上総国に所領を与えられた。このときに真里谷城と庁南城の2つが築かれた
          とされる。
           信長の子信高とその次男道信は庁南城を居城とし、信高の長男信興は真里谷城に入城
          した。道信と信興はそれぞれ庁南氏と真里谷氏を称し、系譜上は前者が本家、後者が分家
          とされた。
           文明十一年(1479)、真里谷・庁南両氏は扇谷上杉氏家宰太田道灌の支援を受けた千葉
          自胤に攻められ、降伏を余儀なくされた。しかし、自胤は旧領下総での基盤を確保できず、
          まもなく上杉氏の本拠武蔵国へ撤退した。
           永正十五年(1518)、信興の孫恕鑑(信清または信保)は古河公方足利高基の弟で僧籍
          にあった空然を擁立し、千葉氏重臣原氏の小弓城を奪った。空然は小弓公方足利義明と
          名乗って積極的に勢力拡大を図り、真里谷氏も恕鑑の下で最盛期を迎えた。
           しかし、天文三年(1534)に恕鑑が死去すると、その庶長子信隆と嫡男信応の間で家督
          争いが勃発した。信隆は後北条氏を、信応は小弓公方と里見氏を後ろ盾とし、両者の対立
          は同七年(1538)の国府台合戦へと発展した。この戦いで義明が討ち死にすると、信応は
          影響力を失い、椎津城に拠る信隆が真里谷氏の家督者と認識されるようになった。
           その後の信応は真里谷城にあって里見氏の庇護下にあったとみられているが、天文九年
          (1540)には真里谷朝信の小田喜城が、同十三年(1544)には同じく真里谷一族の勝真勝
          の久留里城が里見氏に奪われている(久留里城については、里見氏側の文献では譲った
          とされる)。そして、同二十年(1551)には信応が信隆の子信政のいる椎津城に入り、里見
          氏に反旗を翻した。おそらくこの間に、真里谷城も里見氏の手に落ちたものと推測される。
           同年中に椎津城は落城し、信応と信政は自害した。その後の真里谷城については、史料
          にはみられない。


       <手記>
           真里谷城があるのは圏央道木更津東ICと高滝湖PAの間の南側、あるいは木更津市の
          東に細く飛び出た部分の南東端付近といったところでしょうか。かなり山深いところにあり、
          麓にはほとんど開発できるような土地はなく、街道筋からも外れています。今でも周囲に
          目印になるようなものはとくになく、戦国大名の居城としてはかなり特異な場所にあります。
           現在、城跡の大部分はキャンプ場となっています。モノによっては大きく破壊されてなど
          と書かれていて、実際に道路が本丸下まで貫通していますが、それでも個人的にはとても
          よく残っているように感じました。とくに主郭を思われる千畳敷は、6mはあろうかという巨大
          な土塁に囲まれた長方形の曲輪で、蔀状の珍しいT字型の虎口を伴った大規模かつ貴重
          な遺構となっています。北隣には同様の方形区画である城山神社があり、反対側には3段
          ほどの連続腰曲輪群が連なります。その脇には堀底道が認められ、おそらく搦手口と考え
          られます。
           真里谷城の曲輪配置については文献・資料によって扱いがまちまちで、決まった見解は
          得られていないようです。ただ、先述の2つの方形区画および付随の腰曲輪からなる主城
          部を広義の本丸として、千畳敷を狭義の主郭とする点では一致しているようです。主城部
          から管理棟を挟んだ北西側のピークには、深い堀切で分断された2つの曲輪があり、これ
          には両者の内どちらかを二曲輪とするものと、二曲輪および三曲輪と捉える見方の2通り
          があるようです。
           さらに隣の峰の曲輪には豪壮な横堀が設けられています。この曲輪については三曲輪
          とするものと、これより北は出丸群とみる見解の2つがあるようです。北端のピークには、
          現地で四ノ郭とされる曲輪があり、その下が大手桝形となっていたようですが、道路建設
          によって旧地形は大きく破壊されてしまっているようです。
           さて、このように規模や構造はさすがに戦国大名の居城に相応しい威容を備えています
          が、それでも残るのはやはりなぜこんな奥地に?という点です。武田信長はこの真里谷城
          と庁南城(長南城)の2つを築いたとされていますが、後者についてはうって変わって平地
          の城です。
           と、ここで庁南城に目を向けてみると、戦国時代の城というよりは鎌倉時代の開発領主の
          居館に近い選地であることに気付きます。真里谷城についてもやや時代を遡った目でみて
          みると、少なくとも主城部については南北朝期の城郭に似ているように感じられます。
           すなわち、山を削りに削って造られたのであろう、高土塁に囲まれた方形区画が横並び
          になっているという構造は、南北朝時代に流行した山岳寺院からの転用なのではないかと
          考えています。そうすれば、このような人里離れた山奥に立地しているのもうなずけますし、
          完全にアウェイの余所者であった武田信長が支配権確立のために拠ったというのも説明が
          つきます。
           ただ、上総の最大勢力にのし上がった後も真里谷城を居城とし続けるような合理的理由
          があったようには思えず、そのあたりが居城の移転に比較的フレキシブルであった里見氏
          に後れを取った要因の1つに数えられるのかもしれません。

           
 千畳敷のようす。
千畳敷のT字型の虎口。 
 千畳敷下の腰曲輪から見る切岸。
城山神社と背後の高土塁。 
 城山神社背後の堀切。
主郭裏手の帯曲輪にある矢倉状のキャンプ場施設。 
 千畳敷南の物見台と呼ばれる削平地。
連続腰曲輪群南端の削平地。 
 その脇の堀底道。搦手か。
ニ曲輪の峰の堀切。 
 二曲輪の峰の曲輪跡と土塁。
その下の腰曲輪。 
 三曲輪(ないし出丸)の標柱。
三曲輪(ないし出丸)のようす。 
 三曲輪(ないし出丸)の土塁。
三曲輪(ないし出丸)脇の横堀。 
 四の郭標柱。


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