丸岡城(まるおか) | |
別称 : 霞ヶ城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 柴田勝豊 | |
遺構 : 天守、石垣、井戸 | |
交通 : 福井駅徒歩5分 | |
<沿革> 天正三年(1575)、朝倉氏滅亡後に越前国を席巻していた越前一向一揆を平定した 柴田勝家は、織田信長から同国内8郡49万石を与えられた。勝家は、姉の子で自身の 養子としていた勝豊に4万5千石を与えた。勝豊ははじめ豊原寺城を居城としていたが、 翌四年(1576)に丸岡城を新たに築いて移った。 天正十年(1582)、清洲会議により勝豊が長浜城主に転じると、丸岡城主には柴田 家臣安井家清が任じられた。翌十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで勝家が滅ぶと、越前 を与えられた丹羽長秀の家臣青山宗勝が丸岡城主となった。 天正十三年(1585)に長秀が死去すると、丹羽家の所領は若狭一国15万石にまで 減らされ、宗勝はじめ多くの丹羽家臣が豊臣秀吉の直臣大名に取り立てられた。宗勝 の石高は当初2万石だったが、慶長三年(1598)には4万6千石に加増された。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、宗勝は西軍に属したため改易された。戦後、 徳川家康の次男結城秀康が越前68万石に封じられ、丸岡城には結城家臣今村盛次 が2万6千石で入城した。同十七年(1612)、盛次の派閥と附家老本多富正の派閥が 対立し、北ノ庄城下での武力衝突に発展すると(越前騒動)、幕府裁定により盛次は 失脚し磐城平藩預かりとなった。後任の丸岡城主には、富正の従兄弟で秀康の次男 忠直の附家老となった本多成重が4万石で任じられた。 寛永元年(1624)、忠直が不行跡の廉で幕府から隠居を命じられると、成重は独立 した大名として取り立てられ、丸岡藩が成立した。しかし4代藩主重益もまた、不行跡 を理由に元禄八年(1695)に改易された。 代わって、有馬清純が糸魚川から5万石で丸岡へ入封した。以後、有馬家が8代を 数えて明治維新を迎えることになった。ちなみに別称の「霞ヶ城」は、城内の井戸から 戦時に霞が生じて城を覆ったとする伝承に基づいている。 <手記> 丸岡城といえば、現存12天守の1つにして、犬山城と日本最古の現存天守建築を 争っている城として知られています。論争に決着をつけるのは難しいですが、丸岡城 についてはその中世的な武骨さが古さを際立たせているといえます。柾目むき出し の下見板張りに柴田勝家の北ノ庄城と同じと言われる笏谷石の瓦、礎石を用いない 掘立柱と、様式だけならまさに戦国時代の高層櫓のイメージです。惜しむらくは昭和 二十三年に地震で一度倒壊し、同三十年に70%強の建材を再利用して再建された という経緯がありますが、それでも慶長期以前の建築様式を伝える貴重な建造物で あることは疑いないでしょう。 他方で、天守と本丸以外の城内の保存状態がお世辞にも宜しいとは言えないのが 残念な点です。当時主城域の周囲は広い水濠でぐるりと囲まれていて、今でもその ラインは五角形の道路として残っています。この堀を復元する計画もあるようですが、 何しろかなりの面積なので、土地収用をはじめ実現するとしても相当難航することは 想像にかたくありません。近年は、お仙こと本多成重にちなむ「日本一短い手紙」を 観光活性化に利用しているようですが、肝心のお城が天守に登ってハイ終わりでは、 地域への経済効果も限定的なものにとどまってしまうように感じます。 |
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丸岡城天守。 | |
同じく登り階段下から。 | |
天守望楼からの眺望。 | |
霞ヶ城の別称の由来となった井戸。 | |
本丸虎口。 | |
本丸下段現況。 |