松ヶ島城(まつがしま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 織田信雄(北畠信意) | |
遺構 : 天守台 | |
交通 : 近鉄山田線松ヶ崎駅徒歩20分 | |
<沿革> 天正八年(1580)、織田信長の次男信雄(当時の名乗りは北畠信意)は、火災で焼失した 居城田丸城を再建せず、海に臨む細首の地に松ヶ島城を新たに築いて移った。 天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦い後、信雄は長島城へ移り、松ヶ島城には三家老の1人 津川義冬が入った。翌十二年(1584)三月、三家老は羽柴秀吉への内通を疑われ、信雄に 誘殺された。これを契機に小牧・長久手の戦いが勃発すると、松ヶ島城には城将として滝川 雄利が入ったが、四月八日に羽柴秀長の攻撃を受けて開城した。この戦いでは、徳川家康 からの援軍として服部半蔵正成が籠城方に加わっていたともいわれる。 戦後、羽柴家臣蒲生氏郷が南伊勢12万石を与えられ、松ヶ島城に入城した。天正十六年 (1588)、氏郷は松ヶ島城南西の四五百森に新城の築城を開始した。一般には、松ヶ島では 城下町の発展が望めないためといわれている。城は同年中に完成し、松坂城と命名された。 これにより松ヶ島城は廃城となった。 <手記> 松ヶ島城があった松ヶ島町は、信長の次男の居城があったとは思えないほど静かな集落 です。というのも、氏郷が城下の住人をそっくり松坂城下へ移してしまったからで、その後は 移転のできない漁師だけが住む漁村となったといわれています。城内には伊勢参宮街道も 通っていましたが、これも松坂を経由するルートへ変更されました。 そのような経緯もあってか、明確な遺構はほとんど残っていません。上の地図に図示した 地点に、天守台とされる小塚があるのみです。記録によれば、松ヶ島城には五層の天守が 上がっていたとあり、これが正しければ、この天守台では少々狭すぎるように思われます。 あるいは時代とともに天守台も削られていったのかもしれません。天守台には、集落側から 向かうと石碑が立っていますが、反対の海側の麓にも説明板が設置されています。目立た ないので要注意です。 天守台とその東側は一段高い突出した畑地となっており、その外側は低地の田となって います。この畑地一帯の小字を堀の内というそうで、おそらく主郭だったものと思われます。 の東側の水田となっている部分は、当時は海だったものと推測されます。 松ヶ島城の存続期間は、約8年と大名の居城クラスとしては長いとはいえず、それが故に 局所的な統治理念がうかがえる点で興味深いといえます。上述のとおり、氏郷が松ヶ島城 を放棄した理由は、城下が手狭で発展性に乏しかったからといわれています。しかし、私は この見方には懐疑的です。松ヶ島城と松坂城の間には伊勢平野が広がっていて、城下町を 建設するスペースがないなどということはありません。もちろん、半分は海に面しているので こちらは使えませんが、似たような条件の水城は江戸時代にも数多くみられます。さらに、 松ヶ島の海は阪内川や櫛田川、雲出川といった大河が流れ込む穏やかな湾地形を成して いて、海運上も申し分ないポイントであると思われます。 松ヶ島城が築かれたころには、琵琶湖に信長の居城安土城をはじめとしたネットワークが 構築されていて、信雄がこれに倣って水運を意識した選地をした可能性は十分あろうかと 思います。現在でも、松阪と知多半島常滑市沖の中部セントレア空港を結ぶ高速船が運航 されています。 逆に氏郷からみれば、海路による尾張や三河との交通にはとくに魅力はなく、むしろ西の 秀吉との連絡の方がはるかに重要といえます。また、敵対して排除した旧主信長の子の城 を使い続けるというのは、氏郷にとっても秀吉にとってもばつが悪かったとも考えられます。 あるいはもっと単純に、自分の大名としての地位や秀吉政権の基盤がほぼ安定したところ で、オリジナルの城と町を築きたくなったのかもしれません。 いずれも決定力には欠け、これに違いないというものはありませんが、少なくとも松ヶ島城 の城と城下町に重大な欠陥があるというようには、どうにも感じられませんでした。 |
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松ヶ島城天守台を集落側から。 | |
海側の天守台斜面と説明板。 | |
天守台からの眺望。 |