三入高松城(みいりたかまつ)
 別称  : 高松城
 分類  : 山城
 築城者: 熊谷直経か
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、井戸跡
 交通  : JR可部線可部駅徒歩60分


       <沿革>
           承久三年(1221)の承久の乱の恩賞により安芸国三入荘地頭職を与えられた熊谷氏は、はじめ
          伊勢ヶ坪城を築いて居城としたが、貞和三/正平二年(1347)に熊谷直経が高松山に城を設けて
          移ったとされる。他方で、『芸藩通志』によれば伊勢ヶ坪城を築いた直経の曽祖父・直時が、当時
          高松城に拠っていた二階堂是藤を追い落としたとある。いずれにせよ築城時期については詳らか
          でなく、遅いものでは応永年間(1394〜1428)とする説もあるが、いずれも確証はない。
           直経の子・宗直(直明)は、将軍・足利義満の有力武士の勢力削減策による圧迫と挑発を受け、
          応永十年(1403)に南朝へ降った。そのため、安芸の国人衆により三入高松城を攻められ、敗れて
          所領を失った。したがって、遅くともこのときまでには城が築かれていたことになる。宗直の子・在直
          は、安芸分郡守護の武田氏に従って所領を回復し、在直の子・信直以降は安芸武田氏の重臣と
          して勢力を拡大した。また、三入高松城の城内や周辺には十二坊と呼ばれる寺院を配し、熊谷氏
          の所領3千石のうち3百石を寺領として宛てがったとされる。
           永正十四年(1517)、大内方の有田城を攻囲していた武田勢は、来援した毛利・吉川勢との戦い
          で大敗し、当主の武田元繁および熊谷元直が討ち死にした(有田中井手の戦い)。これにより安芸
          武田氏の勢力は急速に衰え、元直の跡はまだ幼い嫡男・信直が継いだが、大永二年(1522)ごろ
          には熊谷氏と毛利氏の間で和解交渉が進められていたとされる。
           天文二年(1533)、信直はついに武田氏から離反し、毛利元就を介して大内方に転じた。元繁の
          跡を継いだ嫡男・光和は信直の妹を室としていたが、不仲だったのか同年に離縁しており、これも
          熊谷氏が背く引き金となったといわれる。三入高松城は武田勢1千に攻められたが、撃退に成功
          した(横川表の戦い)。
           その後も武田氏やそれを支援する尼子氏の攻撃をたびたび受けたものの、三入高松城は落城を
          免れている。天文九年(1540)に光和が病没すると安芸武田氏の没落は決定的となり、養子として
          若狭武田氏から入った武田信実に家中を統制する力はなく、まもなく居城の佐東銀山城を棄てて
          尼子氏を頼り落ち延びた。
           以後、熊谷氏は徐々に毛利氏の重臣として組み入れられていき、天文十六年(1547)には信直
          の娘(新庄局)が元就の次男・吉川元春に嫁いでいる。最終的には毛利家中で1万6千石を領した
          ともいわれ、信直の嫡男・高直は高松山の北麓に石垣で囲まれた土居屋敷を建造した。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利家が安芸国を失うと、高直の子・元直も主家に従い長州
          へ移った。三入高松城もこのときに廃城となったと推測されるが、元和元年(1615)の一国一城令
          まで存続したともいわれる。


       <手記>
           根の谷川沿いに屹立する、急峻なお椀型の山が三入高松城跡です。佐東銀山城とは阿武山を
          挟んで10kmほどしか離れていません。公共交通機関であれば可部駅に近い南西麓が登山口です
          が、車であれば北東の峠まで上がれます。高松山は標高339mで、南西麓からだと比高約300mを
          登らなければなりませんが、北東の峠からだと180mほどの登山で済みます。
           北東の登山口は調整池の脇にあるので注意が必要です。調整池のゲートは常に閉まっていて、
          「行けないの?」と一瞬とまどってしまいますが、登山道が延びているのはその隣の藪の中なので
          見落とさないようにしましょう。しばらく登ると堀切があり、そこから城域が始まります。
           北東の尾根は谷の坊と呼ばれる曲輪を頂点とし、もう1つの広い曲輪との間に堀切や曲輪群が
          配される構造です。この北東尾根は畝状竪堀群や二重堀切など本丸域にはない厳重な堀の防備
          がみられ、かなりの工事量が割かれています。また、ところどころしっかりした石塁が残り、建造物
          も多く存在したように見受けられます。この点、熊谷高直の代になってようやく平地に土居屋敷が
          設けられ、それまでは山上に居住していたとする見解がみられますが、その場合はこの曲輪群が
          居館の候補地として挙げられるのではと感じました。すでに比高200mを超えているので、普段から
          住むとなるとかなり不便そうではありますが。
           谷の坊からまたしばらく上ると、本丸域に達します。山頂部は本丸と鐘の丸に分かたれ、両者の
          間には箱状の堀が設けられています。この堀に面した法面や本丸の側面などにも、部分的に石塁
          が残っていました。当然ながら山頂からの眺望は素晴らしく、広島湾までを一望できます。
           本丸の南や西の尾根筋にはそれぞれ三の丸や与助丸といった曲輪群が続いているそうですが、
          私が訪れた際には雪がだいぶ積もっており、道が分からないうえに斜面を下りるのは危険と判断
          して引き返しました。それでも十分見応えのある城跡で、毛利氏の縁戚たる熊谷氏の勢力のほどが
          うかがえたように感じます。

 南西から高松山を望む。
北東の峠からの登城口。 
右手の林の中が登山道なので注意。 
 城域北東端の堀切。
同上。 
 北東尾根最下段の曲輪。
同曲輪背後の堀切。 
 堀切から続く竪堀。
竪堀が二重になっている箇所。 
 堀切。
竪堀。 
 北東尾根の石塁。
同上。 
 土塁のある曲輪。
畝状竪堀群。 
 竪堀群の1つ。
谷の坊虎口と石塁跡。 
 谷の坊。
本丸北東下の腰曲輪。 
 同上。
本丸と鐘の丸の間の堀切。 
 堀切法面の石塁跡。
鐘の丸。 
 本丸のようす。
本丸最上段。 
 石碑と説明板。
本丸から広島市街方面の眺望。 
 同じく伊勢ヶ坪城跡方面の眺望。
本丸側面の石塁跡。 
 二の丸のようす。


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