三雲城(みくも)
 別称  : 吉永城
 分類  : 山城
 築城者: 三雲実乃
 遺構  : 曲輪跡、石垣、虎口、井戸跡、堀
 交通  : JR草津線三雲駅徒歩30分


       <沿革>
           長享元年(1487)、将軍足利義尚による六角高頼討伐が開始されると(の陣)、高頼は居城
          観音寺城を棄てて甲賀山中へ走り、三雲典膳実乃に命じて吉永の山上に城を築かせた。これが
          三雲城のはじまりとされる。同三年(1489)に義尚(前年に義熙と改名)が鈎陣中で病没すると、
          高頼は観音寺城へ復帰した。城は三雲氏の預かりとなったものと推測されるが、実乃の子行定
          (養子とも)によって、三雲氏の城として整備されたものとみられている。
           三雲氏は、その後六角氏の六宿老と呼ばれるほどに勢力を拡大した。行定の子定持は、永禄
          六年(1563)の観音寺騒動に際し、蒲生氏とともに六角義賢・義治父子の観音寺城復帰に尽力
          したとされる。
           永禄十一年(1568)に織田信長が上洛を図ると、六角父子は敗れて三雲城へ逃れた。三雲氏
          の支援のもと、六角父子はその後も信長に対して抵抗を続けるが、元亀元年(1570)の野洲河原
          での敗戦の後、信長と和議を結んだ。三雲城は、この年に佐久間信盛の攻撃を受けて落城した
          とも伝わる。
           他方で、三雲氏はその後も信長に服従しなかったともいわれ、翌元亀二年(1571)に六角父子
          が菩提寺城で再起を図った際にも、三雲氏の支持があったものと推測される。同年中に菩提寺城
          は落とされ、六角父子は石部城に幽閉されたが、天正二年(1574)に脱出して信楽へ身を潜めた
          といわれる。この後の六角父子および三雲氏の動向については詳らかでないが、遅くとも翌三年
          (1575)には、定持の子成持は所領を失って浪人していたとみられている。
           三雲城の廃城時期は詳らかでないが、天正十三年(1585)に中村一氏が水口岡山城を築いた
          際に、城内の石材が運び去られたと伝えられており、このときまでには廃されていたものと考えら
          れる。


       <手記>
           三雲城は、旧東海道と野洲川に臨む山城で、目印は何といっても山上に白く浮いて見える巨岩
          「八丈岩」です。山麓の住宅地を抜け、青少年自然道場の脇から林道を登ると、登城路の入口に
          石碑と説明板が立っています。住宅地にも「三雲城址」の幟がそこかしこに立っているので、これ
          をたどれば迷わないと思います。
           登城口から入ってまもなく、くだんの八丈岩が現れます。八丈岩は、岩の台座の上に「八丈」の
          名のごとく平たい2枚の巨石が立った状態で乗っています。ですので、正面から見るよりも奥行き
          はないのですが、これが自然にできたものであるなら、どうやって2枚の岩が直立した状態で台座
          の上に止まったのかが気になって仕方ありません。この岩の背後には、六角佐々木氏の家紋で
          ある四ツ目結が彫られており、『日本城郭大系』などでは、これが三雲城が六角氏の城であること
          の証だなどとみていますが、私はそもそもこれが当時彫られたものかどうかわかったものではない
          と疑問視しています。
           八丈岩の奥へ進むと、右手に土塁、左でに崩れた石垣が現れます。石垣部分については、近代
          以降の治山石垣であるとみられています。本物の見どころは、その奥を見上げたところにある主郭
          桝形虎口の石垣です。高さはないものの、堅牢に積まれた石垣が見事に残っています。三雲城の
          主郭は、観音寺城と同様に尾根のピークにはなく、裏手の山上にピークを利用した詰曲輪と思しき
          曲輪があります。詰曲輪へは階段が整備されていますが、これを使わず主郭から北辺外側へ足を
          延ばすと連続する竪堀があり、そこから頂上目指して斜面をよじ登ると、曲輪の隅石垣をみること
          ができます。
           詰曲輪は、主郭に比べると削平が甘い感じで、山頂には八丈岩には及ばないもののやはり巨石
          が屹立しています。単なる勘ですが、ここには城の神が祀られていたのではないかと思われます。
          あるいは、三雲城自体が、もともとは八丈岩を主体とする地元の信仰の山を転用したものなのでは
          ないかとも考えられます。
           詰曲輪の奥にも、堀切を隔ててもう1つ曲輪があります。その先は自然地形となっているようで、
          城域が続いているかは分かりません。
           全体として、規模は大きいとはいえないものの、使われている石垣や堀の技術はかなり高度な
          ものであり、三雲氏が独力で築いたものとは考えにくいように思われます。やはり、六角氏の詰城
          としてふさわしい威容を備えた城として、もともと山城の少ない甲賀地方に君臨していたものだと
          思われます。ただ他方で、主郭に用いられている桝形虎口は、六角氏の城にはみられない技法
          です。『近江の山城』で指摘されている通り、三雲城は六角氏や三雲氏の没落後、織田氏による
          改修を受けたものと推測されます。また、別の可能性として、私は中村一氏が水口岡山城を築城
          した際に、城が完成するまでの仮の居所として使われたのではないかとも考えています。もしも、
          伝えられているように、三雲城の石垣が水口岡山城に転用されたのなら、桝形虎口や曲輪隅の
          の石垣などは、まっさきに持ち去られてしかるべき石材だろうと思います。ですが、ここがほとんど
          手つかずであるということは、水口築城時には無視されていたか、並行して使用されていたかの
          いずれかだったのではないかと考えられます。

           
 三雲城址遠望。
 頂上左脇の白い部分が八丈岩。
登城口の石碑と説明板。 
 八丈岩を横から望む。
主郭下の曲輪の土塁。 
 主郭桝形虎口石垣。
主郭隅の石垣。 
 主郭北辺の石垣。
詰曲輪隅の石垣。 
 主郭の井戸跡。
主郭北辺の連続竪堀。 
 詰曲輪の虎口跡か。
詰曲輪の巨石。 
 詰曲輪奥の曲輪のようす。
 奥に土塁が見えます。


BACK