峰上城(みねがみ)
 別称  : 上後城、環城、天神山城
 分類  : 山城
 築城者: 真里谷信興か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR内房線上総湊駅からバス、
       「上後」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           『日本城郭大系』では、環神社の鰐口に「峯上之城」と打たれた天文二年(1533)の銘
          があることから、この年に真里谷信興が築いたものとしている。現地の説明板にも同様の
          内容が踏襲されているが、少なくとも真里谷氏当主の真里谷信興は永正八年(1511)に
          没している。
           一般的には、造海城が築かれた寛正二年(1461)前後の築城で、信興の弟ないし叔父
          にあたる武田信武が城主となったと考えられている。信武の後は氏信・政信・義房と続い
          たとされる。
           天文六年(1537)、真里谷信応と信隆の兄弟で家督争いが勃発すると、信隆は峰上城
          を本城に、造海城や佐貫城を拠点とした。同年中に信応を支持する小弓公方足利義明
          が峰上城を攻め、信隆は造海城へ退いた。内訌が信応の勝利で終わると、峰上城には
          信応の叔父真里谷全方(信保・信秋)が入った。同八年(1539)には、全方の子義信が
          峰上城北西の六所神社を再建しており、峰上城主を継いだものと考えられている。
           その後の峰上城については定かでないが、天文二十一年(1552)に信隆の子信政と
          信応が里見義堯によって椎津城に滅ぼされる頃までには、里見氏の所有に帰していた
          ものと推測される。『大系』によれば、『千葉県史料』の「鳥海家文書」の同二十三年(15
          54)の記録には吉原玄蕃助を中心とする峰上城の「尾崎郭二十二人衆」があり、北条氏
          に通じて反里見のゲリラ活動を行っていたとされる。


       <手記>
           峰上城は、湊川とその支流志駒川に挟まれた丘陵地帯の先端近くに位置しています。
          先端とはいってもかなり根元の高いところにあり、周囲は深く複雑に入り組んだ谷地形と
          なっています。麓には緩やかな谷戸や平地が広がり、この生産性の高そうな地域を掌握
          するための城であったことは、想像に難くありません。
           城跡へは、細長く伸びた尾根先からまっすぐ南下するだけです。途中、3ヶ所ほど堀切
          があります。もっとも山側のものは喰い違い状の虎口を備え、大手となっているようです。
          さらに上ると突然目の前が開けて、農地と1軒のお宅が現れます。ここが中城と呼ばれる
          ところですが、この1軒農家とお城の関係については不明です。その奥を1段登ると本城
          に達し、ここには土塁が一部残っています。ただ、いずれもだだっ広い空間という印象で、
          中世中期的な感じでした。中城と本城の間から脇道に入って少し下ると溜池があり、その
          先が前出の尾崎郭とされています。ただ、こちらは現在深い藪のなかで、踏査はさすがに
          困難と思われます。
           本城の先には城内最初の(笑)急な登りとなる階段があり、その上には腰曲輪を従えた
          詰曲輪の天神社(環神社)があります。その背後に、かの高名な七ツ堀切が連なっている
          わけですが、有名なわりには踏み分け程度の道もなく、ただひたすら愚直にアップダウン
          を繰り返しながら進まなければなりません。当時の攻城兵の気持ちをトレースできる…と
          いえば聞こえは良いですが、『大和之古城』のダイさんをはじめとする城仲間たちとご一緒
          していなければ、途中で挫けていたかもしれません^^;
           たしかに、七ツ堀切は1つ1つが岩盤を断ち割った規模の大きなもので見応えがあるの
          ですが、工事量に比べて効果の程には疑問符が付くように感じました。たとえば宮崎県
          の高城のように連続堀切が短い間隔で並んでいて、一番奥の堀端まで城内から見通し
          が利くというのであれば、7つあることに効果をもたせることができるでしょう。が、峰上城
          の連続堀切は1つ1つの間隔がやや離れているうえに堀間は(おそらく)盛り上がっている
          ので、1つ1つが相互に連携することは容易ではありません。「工事量が多いわりに全体
          の縄張りにはあまり工夫がみられない」というのは、里見氏の城館について私が直感的
          に思っている点でもあります(築城者は真里谷武田氏ですが)。
           ちなみに説明板は尾根先端八幡神社南東の公園脇にあり、城内からはかなり離れて
          いるので見つけるのに苦労するかもしれません。
           また、『日本城郭大系』の「峰上城要図」は地形図と縄張り図の間にずれがあるようで、
          「要図」で本城とされているところの最高所が詰曲輪(天神社)にあたり、その奥に天神
          社と描かれている場所は、すでに七ツ堀切の1条目と2条目の間に当たります。

           
 説明板。
北側尾根の三連堀切の1つ。 
 三連堀切のもっとも山側のものに付随する虎口状地形。
本城の土塁。 
 詰曲輪(環神社)の切岸と腰曲輪。
詰曲輪の環神社。 
 腰曲輪を上から俯瞰。
七ツ堀切1つ目(城側から数えて)。 
 2つ目。
3つ目。 
 4つ目。
5つ目。 
 6つ目。
7つ目。 


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