造海城(つくろうみ)
 別称  : 百首城
 分類  : 山城
 築城者: 真里谷信興
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、池。
 交通  : JR内房線竹岡駅徒歩30分


       <沿革>
           寛正二年(1461)に真里谷信興によって築かれたと伝わる。信興は上総武田氏初代
          武田信長の孫にあたり、同氏が庁南流と真里谷流に分かれた後の真里谷武田氏の
          初代である。両氏は庁南氏が上総国の東側へ、真里谷氏が西側へと勢力を拡大する
          方向で分け合ったようで、造海城は真里谷氏の西上総経略の拠点として峰上城ととも
          に築かれたと考えられている。
           『里見代々記』によれば、文明三年(1471)に安房の里見義実・成義父子が造海城
          の真里谷信隆を攻め、百首の和歌を詠めば開城するとの条件を飲んで降伏に至らしめ
          たことから「百首城」の呼び名が生まれたとされる。ただし、近年では成義については
          架空の人物とする向きが大勢で、また信興の曾孫にあたる信隆がこのときすでに成人
          していたとは考えにくい。さらには、里見氏の安房統一は義実とその実子と考えられて
          いる義通との2代の所業とみられており、義実期に上総を攻める余力があった可能性
          は低いと思われる。
           他方で、『快元僧都記』の天文二年(1536)の記録には、里見家中の内訌(いわゆる
          「稲村の変」)に際し、当主里見義豊に討たれた正木通綱と義豊の叔父実堯の一族が
          「百首の要害」に立て籠もったとある。すなわち、このころまでには「百首城」という呼称
          自体は存在していたことになる。実堯の遺児義堯と通綱の遺児時茂・時忠兄弟は、
          北条氏綱の援助を受けて義豊を駆逐し、里見氏の家督を奪取した。
           翌天文三年(1537)には、真里谷城の真里谷信応と、信応の庶兄信隆の間で家督
          争いが勃発した。信隆は北条氏の支援を受け、造海城や峰上城、佐貫城などを拠点
          に抵抗した。対する信応は小弓公方足利義明の後援を得ていたが、義堯はこのとき
          北条氏と手を切って信応方に転じた。百首の和歌の逸話は、このときのものとする説
          もある。
           内訌は信応方の勝利となり、造海城は里見氏の所有に帰した。城主には正木氏が
          入れられたが、前出の時茂・時忠兄弟とは同族の別流とされる。正木氏は平姓三浦
          氏庶流とされるが、系譜については諸説あり定かでない。
           天正十七年(1589)の里見義康から正木淡路守に宛てた朱印状には、安房からの
          廻船を必ず百首湊に寄港させる一方で、税などは徴収しないよう命じる内容が記され
          ている。
           翌天正十八年(1590)の小田原の役に際し、里見氏は安房一国のみの安堵とされ、
          これにともない造海城は廃城となった。


       <手記>
           造海城は、白狐川河口に突き出た半独立丘を利用した城です。独立丘といっても
          かなり規模の大きな山で、そのくせ南の山塊側とはびっくりするくらい細長い尾根だけ
          でつながっています。その尾根の南端付け根西麓に灯篭坂大師があり、そこから城山
          へ登ることができます。登り切った先は岩盤が堀切状に割られており、多くの資料では
          ここを大手としています。ただ、大師から堀割までの登り道は明らかに後世に造成した
          と思われる岩盤をきれいに削った階段となっていて、この堀切も同じときに断ち割った
          ものではないかという疑問を抱いています。
           尾根を城山に向かって最初に現れる明確な遺構は、結構な高さのある櫓台状地形
          でしょう。その先には土塁で囲まれた曲輪と堀切が認められます。
           城山には大きく3つのピークがあり、どれを主郭とするかは資料によってまちまちで、
          まとまった見解はいまだにないようです。『日本城郭大系』で本丸としている一番西の
          曲輪は、細尾根の城山側付け根の直上にあり、中心的な位置にありますが、3つの
          ピークのなかではもっとも低いようです(とはいえ3mほどしか違いはありませんが)。
          この曲輪は完全なる藪に覆われていて、踏査はほぼ不可能でした。この曲輪の西に
          派生する支尾根には、土塁や虎口をともなった削平地が連なり、ようやく城跡らしさを
          満喫できるポイントとなっています。「大系本丸」の北にも、造作が複雑に入り組んだ
          支尾根があり、その先には櫓台状に削平された通称「水の手曲輪」があります。
           水の手曲輪から東にスライドすると、途中で岩盤を幅広く断ち開いた回廊があります。
          巨大な空堀のようにも見えますが、それ以前に堀底を通らないと城内の行き来ができ
          ない通路となっていて、役割のよく分からない遺構となっています。
           回廊を抜けた先から斜面をよじ登ると、学研の『戦国の城(上)』で一曲輪としている
          削平地に出ます。結構な広さのある2段の曲輪から成っているうえに、城内最高所と
          いうこともあり、こちらも主郭とするに十分足る曲輪といえるでしょう。
           ここから2段ほど下がったところに、方形の池があることに気付くはずです。これまた
          岩盤をずいぶんと綺麗に削って作られた用水池で、一緒に訪れていた城仲間の1人が
          木の枝で深さを確かめたところ、なんと人の肩くらいまでありました。
           残る北東端のピークへは、先端側から回り込んで登ることができます。3つのピーク
          のなかではもっとも面積は小さいですが、土塁や虎口跡が残り、1段下には武者溜り
          のような小スペースも認められます。大手みられる細尾根側からは一番遠いところに
          位置しているので、ここを詰曲輪とみることもできなくはない感じです。
           さて、今回の訪城では、城山に登る前に白狐川河口から海岸線を少し歩きました。
          というのも、同じくご一緒した『大和之古城』管理人のダイさんの前情報では、岩場に
          船着き場のピット穴が残っているということでした。びっしり蠢く大小無数のフナムシを
          避けながらひたすら穴を求めて歩きますが、確実に「これだ!」と言えるほどのものは
          なかなか見つかりませんでした。明らかに人工と思われる〇や□の削り込みは散見
          されたのでそれらを写真に収めましたが、その中のいくつかはビンゴだったようです。
           ところで、造海城の別称の百首城ですが、個人的には当時の里見氏にも真里谷氏
          にも、戦いのさなかに和歌のやり取りをするような余裕と文化的下地があったように
          は思えません。ここで、大なり小なり勝者は自身の歴史を美化するものですが、里見
          氏においてはその傾向が顕著なように思われます。たとえば、近年の研究によれば
          稲村の変はこれまでいわれてきたような義堯による勧善懲悪の交代劇ではなかった
          ことが指摘されています。後味の悪い簒奪劇の事実を美化して伝えようとしたと考え
          られており、百首城についても同様に、内訌に乗じて上総武田氏の領土を蚕食した
          過程を糊塗しようとしたのではないかとも考えられます。
           ただし、百首城という呼称が当時から使われていたことは一次史料からも明らかで、
          この点についてはもともと「百首」というのは地形を指したものなのではないかと推測
          しています。地図上でも分かるとおり、細首一本で繋がった城山はいくつもの尾根を
          従えて海に突き出ており、この山の形をして「百首」と呼んだのではないかと。もっと
          いうと、当初は「ひゃくしゅ」ではなく「もくび」ないし「ももくび」などと呼んでいたのでは
          ないかと、私見ながら考えています。

           
 白狐川河口付近から城山を見上げる。
細尾根上の櫓台状地形。 
 細尾根上の土塁で囲まれた曲輪。
同じく土塁。 
 細尾根の堀切。
城山南西面の竪堀。 
 西端ピーク下の虎口。
西端支尾根の土橋。 
 土橋下の削平地。
西端支尾根の曲輪。 
 曲輪脇の土塁。
同じく虎口。 
 西端の堀切。
水の手曲輪の櫓台状削平地。 
 水の手曲輪付け根の堀切。
岩盤を断ち割った回廊。 
 真ん中のピークのようす。
ピーク下の削平地。 
 真ん中のピーク下の用水池。
用水池脇の岩盤を断ち割った虎口。 
 北東端のピークの土塁。
北東端のピークの虎口と武者溜り状地形。 
 海岸線のピットっぽい穴。
同上。 


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