|  | 三刀屋城(みとや) | 
| 別称 : 尾崎城、天神丸城 | |
| 分類 : 平城 | |
| 築城者: 諏訪部扶長 | |
| 遺構 : 曲輪、石垣、土塁、堀 | |
| 交通  : JR山陰本線出雲市駅からバスに乗り、 「アスパル前」下車徒歩5分 | |
| <沿革> 国人・三刀屋氏累代の居城とされる。三刀屋氏は、信濃源氏流・伊那為扶の孫の諏訪部幸扶が 出雲国飯石郡三刀屋郷の地頭職を得たことにはじまる。実際に下向したのは幸扶の子の扶長で、 承久三年(1221)の承久の乱を経て所領に下り、三刀屋城を築いたとされる。ただし、そのころから 山上に城砦が営まれていたかは定かでない。 建武二年(1335)に足利尊氏が建武政権に反旗を翻すと、諏訪部扶重は足利方に属して戦った。 諏訪部氏がいつごろ三刀屋氏を主として称するようになったのかは詳らかでない。 戦国時代に入って尼子経久が戦国大名化すると、三刀屋氏や同じ出雲の有力国人・三沢氏らと 共に尼子氏に従属した。天文十年(1541)に尼子晴久が毛利氏の吉田郡山城攻略に失敗すると、 三刀屋久扶は三沢氏らと共に大内方に寝返ったが、同十二年(1543)に大内義隆が尼子氏の居城 月山富田城を攻めて大敗すると、両氏そろって尼子氏に帰参した。 永禄五年(1562)、石見山吹城の本城常光が毛利元就に降伏すると、久扶や三沢為清も毛利に 転じた。三刀屋城は元就の出雲侵攻における前線および兵站拠点となり、翌六年(1563)の地王峠 の戦いをはじめとしてしばしば尼子氏の攻撃に晒されたが、久扶らはよく凌いで防ぎきっている。 毛利氏幕下の三刀屋氏は、ときに軍役を拒否するなど有力国人としてある程度の独立した権限を 有していた。しかし、永禄九年(1566)に月山富田城が落城して尼子氏が滅亡し、同十二年(1569) に尼子再興軍が出雲へ上陸すると、久扶は毛利家への忠誠を誓う起請文を提出させられている。 天正十四年(1586)、毛利輝元らの上洛に随行した際、久扶は徳川家康に面会したとして疑いを かけられ、所領を没収されて国外へ追放された。ただし、この年に輝元が上洛したり、久扶が家康と 面会した記録はみられず、実際には家中の有力不穏分子の排除であったとみられている。久扶の 子の孝扶は引き続き毛利家に仕えたが、旧領復帰はならず、久扶追放以降の三刀屋城の扱いは 定かでない。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いによって毛利家が防長2国へ減封となり、堀尾吉晴が出雲一国 を与えられると、三刀屋城は吉晴によって改修されたとみられている。一説に、吉晴は三刀屋城を 居城としようとしたともされ、松江城が完成するまでには廃城となったと推測される。 <手記> 三刀屋川と古城川に挟まれて細く伸びる峰が三刀屋城跡です。当時の三刀屋川はもっと南側の、 現在町場となっているあたりを流れていたそうです。主城域は桜の公園となっており、途中の道は 狭くすれ違い不可で恐いものの、中腹の伝馬場跡上に駐車場も用意されています。あと、城内には 猿がいました^^; 伝馬場跡の向かいには伝馬舎跡があり、一画には石垣が残っていました。駐車場も腰曲輪跡と 考えられ、公園化によって全体的に地形の改変がみられるものの、腰曲輪群など遺構は比較的に 分かりやすく残っています。本丸にはやや崩れた櫓台があり、二の丸との間には仕切り状の石垣が 設けられています。二の丸や本丸の南側斜面にも、石垣の痕跡が点在していました。ほかにも堀や 石垣があちこちにあるようですが、雨が降ったり止んだりの天気だったため、あまり深くまでは入りま せんでした。 これらの石垣は、おそらく堀尾氏の改修によって築かれたものでしょう。尼子家臣時代の三刀屋氏 にこれだけの石垣を設けるノウハウはなかったと思いますし、外様であった毛利家臣時代にわざわざ 目を付けられるような大改修に及んだとは考えにくいからです。 また上述のように、堀尾氏が三刀屋城を居城とする計画があったという説があるそうですが、出雲 一国を治める首府として地勢的に適しているとはとても思えません。おそらく、石垣を広く用いている というだけで、地図も読めない自称歴史家が短絡的に唱えているのでしょう。 | |
| 南向かいの善徳寺から城山を望む。 | |
| 伝馬場跡。 | |
| 伝馬舎跡。 | |
| 伝馬舎跡の石垣。 | |
| 腰曲輪か。 | |
| 腰曲輪群と川下方面の眺望。 | |
| 本丸のようす。 | |
| 本丸の櫓台。 | |
| 本丸と二の丸の間の仕切り石垣。 | |
| 二の丸のようす。 | |
| 本丸・二の丸南側斜面の石垣。 | |
| 同斜面および石垣。 | |
| 城内から川上方面の眺望。 | |