宮森城(みやもり) | |
別称 : 四本松城、上館 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 宇都宮氏広 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、湧水 | |
交通 : JR東北本線二本松駅からバスに乗り、 「小浜」下車徒歩30分 |
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<沿革> 応永三年(1396)、奥州管領に任じられた宇都宮氏広によって築かれ、当初は四本松城と 呼ばれたとされる。同七年(1400)、氏広は鎌倉公方に反旗を翻して敗死し、宮森城も一旦 廃城となったとみられる。 氏広の後は足利一門の石橋棟義の系統が新たに四本松城を築いて入植し(塩松石橋氏)、 文明三年(1471)にその家臣・大河内修理が旧四本松城を修築して宮森城と改めたとされる。 同年には大内宗政が小浜城を築いたとされ、宮森城を上館、小浜城を下館とも称した。 大河内・大内に石川・寺坂を加えた4氏は石橋四天王と呼ばれたが、天文十九年(1550)に 大内義綱が石橋尚義を幽閉して家中の実権を握った。永禄十一年(1568)には義綱によって 尚義が追放され、宮森城主大河内備中は義綱および石川弾正有信・寺坂信濃の四天王3氏 に攻め滅ぼされた。このとき、備中守の甥で22歳の大河内宗四郎は、太刀を振るって城内に 入ろうとしたものの敵が満ちて果たせず、石の上に登って切腹したとされる。 天正十三年(1585)、義綱の子・定綱は伊達政宗に攻められ、蘆名氏を頼って落ち延びた。 次いで二本松城を標的とした政宗は小浜城に入り、まもなく政宗の父・輝宗も宮森城へ入城 した。 二本松(畠山)義継は政宗に降伏を申し出たが、所領のほとんどを召し上げるという厳しい 条件を突きつけられた。進退に窮した義継が宮森城の輝宗や伊達成実に斡旋を依頼すると、 条件は緩和されたという。同年十月八日、御礼言上に宮森城を訪ねた義継は、玄関へ見送り に出た輝宗に刀を突き付けて拉致した。 同席していた成実と留守政景が兵を率いて遠巻きに追ったが、阿武隈川を渡れば二本松 領という粟ノ巣の高田原でついに砲撃を命じ、義継は撃ち殺されたとも輝宗を刺して自害した ともいわれる。また、銃撃を命じたのは狩りから駆けつけた政宗であったともされる(粟ノ巣の 変)。 翌天正十四年(1586)に二本松城が開城して以降の宮森城の扱いについては定かでない。 <手記> 宮森城は小浜城から小浜川を1.5kmほど遡ったところにあります。小浜城に比べて狭隘な 山間の小山で、城下の発展性はほとんど望めません。おそらく、南北交通の街道が通って いたことから重視されたのでしょう。 主郭跡には矢取八幡神社が鎮座し、参道には城門風の公園ゲートが建てられています。 主郭背後には深い堀切が穿たれ、主郭一帯は樹木が伐採されていますが、その後はその ままにされているようで雑草が生い茂ってしまっています。そのため、腰曲輪が連なっている ようには見えますが、全体像はよく分かりません。また、「宮森家祖大内氏城址」という石碑 が神社境内に建っていますが、大内氏が宮森城を保有していたのは16年程度で、その間に 宮森家が成立したという話も耳目にしていないので碑文の由来は謎です。 また、東麓の谷には「御膳清水」という湧水があり、今でも飲めそうなくらい清く澄んだ水を 湛えています。脇の説明板には「輝宗公御膳清水」とありますが、輝宗が宮森城にいたのは 長くても数か月のため、実際には城主累代の飲用水だったのでしょう。さらに北東麓の道路 沿いには前出の大河内宗四郎が自害したとされる腹切石もあります。 宮森城を訪れて個人的に意外だったのは、小浜城とあまりに近く、また二本松領に対して 最前線に位置しているという点です。少なくとも、ご隠居が余生を過ごすような場所ではあり ません。輝宗には実権をすべて手放す気はなかったのか、政宗と共同統治を目指したのか、 真意は推し測るよりありませんが、少なくとも政宗の方針に口を出す気は満々だったのでは ないかな、というのが訪城しての実感です。 |
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登城口の模擬城門。 | |
主郭背後の堀切。 | |
主郭を見上げる。 | |
主郭下の腰曲輪跡か。 | |
主郭の矢取八幡神社。 | |
主郭背後の土塁。 | |
境内の城址碑。 | |
主郭のようす。 | |
主郭から南東方面の眺望。 | |
御膳清水。 | |
腹切石。 |