小浜城(おばま)
 別称  : 下館
 分類  : 山城
 築城者: 大内宗政
 遺構  : 石垣、土塁、堀
 交通  : JR東北本線二本松駅からバスに乗り、
      「岩代支所」下車徒歩5分


       <沿革>
           文明三年(1471)、四本松城主石橋氏の家臣・大内宗政によって築かれたとされる。同氏は
          宗政の父・晴継の代に塩松石橋氏に仕え、晴継の故郷である若狭国小浜に景色が似ている
          ことから、小浜城と命名されたと伝わる。ただし、晴継が若狭出身とする確証はなく、大内氏の
          出自についても多々良氏流大内氏の一族や菊池氏、大崎氏旧臣、石橋氏庶流など諸説ある
          が、いずれも若狭との関連はなく、陸奥大内氏の出自は今なお定かでない。
           同年には同じ石橋家臣の大河内修理が宮森城を修築したとされ、宮森城は上館、小浜城は
          下館とも呼ばれた。大河内・大内に石川・寺坂を加えた4氏は石橋四天王と称されたが、天文
          十九年(1550)に宗政の曽孫とされる義綱が主君・石橋尚義を幽閉して家中の実権を握った。
          永禄十一年(1568)には尚義を追放し、石川弾正有信・寺坂信濃と共に残る四天王の大河内
          備中を宮森城に滅ぼした。
           義綱は田村氏に従属していたが、その子・定綱は自立を図って蘆名氏に鞍替えした。天正
          十二年(1584)に田村氏の縁戚である伊達政宗が家督を継ぐと、定綱は伊達氏への臣従を
          一度は誓ったものの、態度を翻したため政宗は翌十三年(1585)閏八月にいわゆる小手森城
          での撫で斬りを敢行した。これを見た定綱は小浜城を放棄して蘆名氏を頼ったため、政宗は
          小浜城を無血で接収した。
           次いで二本松城を標的とした政宗は小浜城に入り、まもなく政宗の父輝宗も宮森城へ入城
          した。二本松(畠山)義継は降伏を申し出たが、所領のほとんどを召し上げるという厳しい条件
          を突きつけられ、進退に窮して粟ノ巣の変を引き起こし、輝宗と共に殺害された。政宗はこの
          のち、人取橋の戦いを経て翌天正十四年(1586)に二本松城が開城するまで、小浜城を仮の
          居城とした。
           その後も小浜城は伊達氏の重要な拠点として機能し、重臣・白石宗実が城代に任じられた。
          奥州仕置を経た天正十九年(1591)、葛西大崎一揆に伴い伊達家が岩出山58万石に減転封
          されると、蒲生氏郷の持ち城となり蒲生忠右衛門が2万5千石で城代となった。現存する石垣
          は蒲生氏時代の遺構といわれる。
           慶長三年(1598)に上杉景勝が会津へ移されると山浦景国が城代となり、同五年(1600)の
          関ヶ原の戦い後に蒲生家が再封されると、玉井貞右(稲田数馬)が入れられた。廃城年は、
          蒲生忠郷が没して蒲生家が改易となった寛永四年(1627)ともいわれるが確証はない。


       <手記>
           伊達政宗が一時的にせよ長の居所としたことで知られる小浜城は、小浜川下流の緩やかな
          丘上にあります。小浜川自体は阿武隈川の支流・移川の支脈で、狭隘な山間を流れるさほど
          大きくも長くもない河川ですが、小浜城や宮森城の麓を南北交通の街道が通っていたようで、
          なるほど流域では最も発展性のあるエリアです。
           石垣の残る一曲輪は公園化され、その他の部分も樹木は伐採されて全体像が把握しやすく
          なっています。二曲輪の向こうには雄大な安達太良山が望め、若き日の政宗の覇気と野望を
          追体験することもできるでしょう。
           他方で、一曲輪以外の曲輪は畑地や藪となっていて自由には歩けず、全体的な雰囲気とは
          大きく異なっています。地権者の協力が得られているようでいないようで、口惜しく感じられる
          部分でもありました。
           小浜城跡でぜひ訪れるべきは、主城域の南の峰に伸びる出城でしょう。距離や位置関係的
          には出城というより出丸に近く、大手の谷を主城域の峰と挟み込んで守っています。出城の
          主郭には二ツ石稲荷神社が鎮座し、前方に2段の腰曲輪が続いています。私が訪れたときは
          さらに南方に伸びる支尾根の堀切と腰曲輪の草木がすっきり刈られて、見るも眼福なようすで
          露わとなっていました。ただ、すっきり過ぎるので暖かくなると藪に埋もれてしまうおそれもある
          ように思います。
           小浜城の城名について、上述のとおり若狭国小浜の風景に似ていたからという伝承がある
          ようですが、大内氏の出自が若狭かどうかはさておいても単なる付会に過ぎないと感じます。
          こちらの小浜が海から遠く、若狭国小浜が天然の良港であるという点は言うに及ばず、狭小な
          山間と御食国の平野部を同列に語るというのは流石に無理があるでしょう。

           
 一曲輪(右側)と二曲輪(左側)。
二曲輪越しに安達太良山を望む。 
 一曲輪の石垣。
二曲輪の石垣。 
 一曲輪のようす。
一曲輪の石碑。 
まったく同じものが宮森城跡にもあります。 
 一曲輪下段のようす。
 政宗の殿舎とも推定できる建物跡が
 検出されたそうです。
一曲輪背後の腰曲輪を俯瞰。 
 一曲輪から二曲輪を俯瞰。
一曲輪と二曲輪の間の堀切。 
 一曲輪から出城を俯瞰。
東曲輪のようす。 
 三曲輪と東曲輪の間の堀。
出城南支尾根の堀切と曲輪跡を俯瞰。 
 出城主郭の二ツ石稲荷神社。
出城主郭1段下の曲輪。 
 同じく3段目の曲輪。


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