四本松城(しおのまつ) | |
別称 : 古館 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 石橋氏か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : JR東北本線二本松駅からバスに乗り、 「前石田」下車徒歩40分 |
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<沿革> 塩松石橋氏累代の居城とされる。石橋氏は足利泰氏の庶長子・家氏の曽孫・和義に始まり、 その子・棟義は貞治六年(1367)に奥州管領を補佐する奥州総大将に任じられた。応永七年 (1400)、塩松を本拠としていた宇都宮氏広が鎌倉公方に反旗を翻して敗死し、この後に棟義 の一族が入れ替わりで入植したと推測されている。塩松石橋氏は、それまで四本松城と呼ば れていた後の宮森城を廃し、こちらの四本松城を新たに築いて居城としたとみられる。また、 当城が「古館」とも称されるのに対し、東方約1kmの住吉山城が「本城」の別称をもつことから、 四本松城を両城の総称とみる向きもある。 塩松石橋氏は足利一門の名族ではあったが、ついに戦国大名への脱皮はできなかったと いわれている。天文十一年(1542)に伊達家で起きた天文の乱が南奥全体を巻き込む大乱 に発展すると、石橋尚義ははじめ稙宗方に属していたが、後に晴宗方に転じた。この過程で、 石橋四天王と呼ばれる大内・大河内・石川・寺坂の4氏が発言力を増し、とりわけ小浜城主の 大内義綱が頭角を現した。 天文十九年(1550)、ついに義綱は尚義を四本松城内に監禁して実権を奪い、永禄十一年 (1568)には領内からも追放した。早ければこのときに廃城となったと考えられるが、詳細は 不明である。 <手記> 四本松城は南東側のみ細尾根の頸部で地続きとなった峻険な山で、麓は三方を口太川が 洗っています。峠となった頸部が大手口で、登城口には説明板も設置されています。大手は 主郭部と南出城で挟み込む形となっているのですが、出城の方は藪で登れそうにありません でした。 主郭には四本松神社が祀られ、社殿の裏手には物見岩のようなシンボリックな巨石があり、 その上に石碑も建てられています。また、主郭先端側には音叉型に2本並列する浅い土塁が あるのですが、用途が分からず遺構かは不明です。 主郭から北尾根へ分け入ると、腰曲輪を2段下った先に立派な堀切が残っています。その 先は北出城と呼ばれる小規模な曲輪があり、三方急崖となっています。 東の尾根にも曲輪や堀切が連なっているようなのですが、こちらは民家の敷地を通過しな ければならないので許可なく行くわけにはいきません。麓へ向かう道路から入れないかとも 思ったのですが、日当たりの良いド藪で難しそうでした。 四本松城自体は険阻ではありますが、城下の発展性はあまりありません。あくまで比較の 上では、住吉山城の方が開けたところにあります。『日本城郭大系』によれば四本松城南麓 の階段状の水田にいくつか根古屋関連と見られる字があるとのことです。また、住吉山城下 には本町、両城のちょうど中間には中町や田町といった字も見られるため、やはり石橋氏の 居城は四本松城を詰城とする形で2城並立していたのではないかと推察されます。 |
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西から四本松城跡を望む。 | |
大手口の説明板。 | |
主郭の2本の土塁状態地形。 | |
同上。遺構かは不明です。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の四本松神社。 | |
社殿裏の大岩とその上の城址碑。 | |
主郭南下の付壇。 | |
主郭北尾根の腰曲輪。 | |
北尾根の堀切。 | |
住吉山城から四本松城跡を望む。 |