溝延城(みぞのべ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 溝延茂信
 遺構  : 堀跡
 交通  : 東北中央自動車道東根ICから車で10分


       <沿革>
           14世紀後半の寒河江領主大江時茂の長男茂信は、溝延に配されて溝延氏を称した。
          溝延城もこのときに築かれたとみられているが、確証はない。応安元/正平二十三年
          (1368)、茂信は大江氏族を率いて北朝の斯波兼頼と決戦に及んだが、漆川の戦いで
          大敗を喫して一族とともに自害した。
           茂信の跡は長男家広が継いだとされるが、その後の溝延城主については複数の系図
          が存在する。一説には、家広の孫満教が白岩城主白岩氏を継承し、寒河江城主寒河江
          元高の子孝満が、溝延氏の養子となったとされる。
           天正二年(1574)、最上義守・義光父子が対立して内訌が勃発すると、寒河江兼広は
          義光を支持した。これに対し、義守派の白鳥氏・天童氏・蔵増氏・野辺沢氏が兵を挙げ、
          さらに寒河江氏と同族の溝延氏や白岩氏、左沢氏が同調して寒河江城を囲み、本丸を
          除いて突き崩されたとされる。この戦いの背景には、義守を支援する伊達輝宗の影響
          があったといわれ、義光と輝宗の間で和議が成立するに及んで寒河江における争いも
          終息した。
           天正十二年(1584)、義光は白鳥長久を山形城に誘殺し、主を失った長久の居城の
          谷地城を急襲して攻め落とした。返す刀で寒河江へ転進した最上勢は、白鳥氏旧臣を
          糾合した高基の弟柴橋頼綱を撃破して討ち取った。寒河江高基は城を棄て、貫見楯で
          自害し寒河江市は滅んだ。溝延氏も寒河江本家と運命を共にしたとされるが、その経緯
          は詳らかでない。
           ところで溝延には、茂信以来、城代として我孫子氏が置かれていたとされる。落城時、
          溝延には城代を弟に譲って出家し、村民から「溝延長老(こうえんちょうろう)」と呼ばれ
          ていた我孫子春時入道があった。溝延長老は慈恩寺の聞持院に隠棲していたが、後に
          義光の詮議に遭い、最上院で自害をさせられたと伝わる。
           寒河江氏および溝延氏の滅亡により、溝延城も廃城となったものと推測されるが、その
          時期は明らかでない。


       <手記>
           溝延城は寒河江城と同じく3重の堀に囲まれた輪郭式の平城で、現在の溝延集落ほぼ
          全域が城域だったようです。遺構はほとんど失われていますが、地図を見る限り、二の丸
          と三の丸の北辺の堀跡が、水路となっているようです。
           また、集落の中心部に溝延城址公園と溝延本丸公園があり、前者には説明板や石碑
          が設置されているほか、園内に城の縄張りを模した地表展示が設けられています。
           城域は広く、この城を守り切るとなるとかなりの兵力が要るので、どれほどの実用性が
          あったかは疑問の余地があるでしょう。

           
 溝延城址公園の城址碑。
園内の縄張りの地表展示。 
 溝延本丸公園。


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