大久保城(おおくぼ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 大窪氏
 遺構  : 堀
 交通  : JR奥羽本線村山駅からバスに乗り、
      「大久保四辻」下車徒歩5分


       <沿革>
           15世紀初頭の最上氏3代当主最上満直は、子の満基・満頼・満国を中野・大窪(大久保)・
          楯岡に配し、3名はそれぞれ地名を姓として分家した。大窪満頼は、はじめ最上川河岸上の
          大久保古城に住したとされる。その後、大窪氏は西方台地上に大久保城を築いて移ったと
          されるが、その時期や築城主については不明である。
           満頼以降の大窪氏の動静も定かでないが、戦国時代末期の最上義光のころに、大久保
          主馬介が大久保城主となっている。主馬介と満頼の関係や、大久保(大窪)氏が代々城主
          であったのかなど、詳細は明らかでない。


       <手記>
           地図上ではやや分かりづらいですが、大久保城は舌状に張り出した地形を利用して築か
          れています。中心部には大久保小学校があり、その正門脇に城址碑が建てられています。
          北東下に観音堀、北辺から北西辺下にかけて愛宕堀という水濠が残っていて、城跡に来た
          感触は十分に味わえるでしょう。小学校の西辺奥には、愛宕堀の名称の由来と考えられる
          愛宕神社があります。
           このように、遺構については見るべきもののある大久保城ですが、城および城主の歴史に
          ついては、かなり謎であると言わざるを得ないでしょう。最上満直のころは最上氏の拡大期
          にあったとみられますが、その後は動静が定かでない時期が続きます。大窪氏は白鳥氏や
          中条氏、天童氏など他の氏族に囲まれており、最上氏の勢力が衰退すればたちまち難しい
          立ち位置になったと思われます。同時期に分家した楯岡氏などは、後に最上八楯に加わり
          地位保全に成功しましたが、大窪氏の動向は杳として知れなくなっていることから、あるいは
          滅ぼされたり、城を逐われたりした可能性も、ないとは言えないでしょう。少なくとも、白鳥城
          の白鳥長久が谷地城へ進出した際には、白鳥氏に従ったか逐われたか、あるいはすでに
          滅んでいたかのいずれかでなければならないはずです。

           
 大久保小学校の大久保城址碑。
北東下の観音堀。 
 北辺下の愛宕堀。
愛宕堀が北西辺に曲がったところ。 
 堀端から愛宕神社を見上げる。切岸か。
愛宕神社。 
 城跡付近から南方を望む。
おまけ:大久保城にほど近い 
板そばの人気店「あらきそば」 


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