撫養城(むや) | |
別称 : 岡崎城、林崎城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小笠原氏か | |
遺構 : 石垣、曲輪 | |
交通 : JR鳴門線鳴門駅徒歩20分 | |
<沿革> 承久三年(1221)の承久の乱の戦功により阿波守護となった小笠原氏によって 築かれたと伝わるが、詳細は不明である。大永三年(1523)、流れ公方と呼ばれ た足利義稙が阿波国撫養で没していることから、このころまでには存在していた と考えられている。 16世紀後半の三好長治の時代には、三好家臣四宮加賀守が城主であったと される。讃岐国大内郡の引田城には、永正年間(1504〜21)ごろに土豪寒川氏 の家臣四宮右近が城主として入っていたとされるが、両者の関係は定かでない。 天正十年(1582)九月の勝瑞城開城から翌十一年(1583)四月の木津城陥落 の間ごろに、土佐の長宗我部元親によって攻め落とされたとみられる。元親は、 真下飛騨守を城将として置いた。 天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による四国攻めでは、阿波に上陸した 羽柴秀長軍がすぐに木津城攻略に取り掛かっていることから、撫養城はさしたる 戦闘もなく羽柴軍に占領されたものと拝察される。 戦後、蜂須賀家政が阿波一国を領すると、撫養城は新たに築かれた徳島城の 支城群「阿波九城」の1つとして整備され、重臣益田正忠が城主となった。正忠の 跡は嫡子正利が継いで5000石を知行したが、一国一城令発布後の寛永十五年 (1638)に、阿波九城は廃城となった。 <手記> 独立丘上に三層の天守閣が建っているので、遠くからでもよく目立つ城跡です。 この天守閣は、鳴門市出身の人類考古学者鳥居龍蔵氏を顕彰する博物館として 建てられましたが、2010年に移転して以降は、「トリーデ鳴門」という市民向けの ギャラリーや会議室として利用されているそうです。観光客にも開放されているか は分りませんが、開館日は基本的に土・日・祝日だそうです。 この天守閣は模擬で、撫養城には天守建築はなかったとされています。天守閣 の建設によって、かつての本丸付近の状況については分からなくなってしまって います。唯一はっきりした遺構とされる石垣が、副郭跡と思われる一段下の妙見 神社裏手にあるということでした。ただ、社殿を囲む石積みはどうも城のものには 見えなかったのでさらに裏にまわると、ようやく古い石塁の断片が見つかりました。 なかなか味のある石垣なので、ぜひ忘れずにここまで回り込んでいだたきたいと 思います。 |
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撫養城址遠望。 | |
模擬天守閣。 | |
鳴門市街方面の眺望。 | |
妙見神社背後の石垣。 | |
同上。 |