明禅寺城(みょうぜんじ) | |
別称 : 明善寺城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 宇喜多直家 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀跡 | |
交通 : 岡山駅からバスに乗り、「原尾島住宅前」 下車徒歩25分 |
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<沿革> 永禄九年(1566)、亀山城主宇喜多直家は備中松山城主三村家親を遠藤秀清・俊通兄弟に 狙撃・暗殺させると、明禅寺山に城を築いて西方への勢力拡大を図った。翌十年(1567)七月、 家親の跡を継いだ子の元親は明禅寺城を夜襲して攻め落とし、根矢与七郎と薬師寺弥七郎に 150の兵をつけて守らせた。 一方、直家は石山城主金光宗高・中島城主中島元行・舟山城主須々木豊前守を寝返らせ、 明禅寺城にも開城を打診したが拒否された。明禅寺城からは元親へ救援要請が送られたが、 直家はこれを利用して宗高からも元親の出陣を促させた。 元親は1万余の兵を揃え、明禅寺城を攻囲している宇喜多勢を背後から襲わんと出陣した。 これを知った直家は5千の兵を集めて明禅寺城に全力で攻めかかり、これを落とした。このとき 三村軍先鋒の庄元祐(元親の実兄)は明禅寺山の主峰操山近くまで進軍しており、山上から 宇喜多方に急襲され混乱に陥った。一説には、元祐は馬廻りの兵を束ねて敵陣に決死の突撃 を敢行したが、及ばず金光宗高の兄とされる能勢頼吉討ち取られたと伝わる。しかし、史料上 でその後も元祐の活動が確認されるため、誤伝ないし直家が敢えて流した虚報と考えられて いる。 庄隊の潰走に続き、宇喜多勢の猛攻によって三村勢の中軍・本陣も激戦の末に敗走した。 一連の戦いは明禅寺合戦ないし明禅寺崩れと呼ばれる。明禅寺城のその後については定か 出ないが、遅くとも直家が石山城へ居城を移すまでには廃城となったと推測される。 <手記> 明禅寺山は、岡山市街の東に横たわる操山から派生した支峰で、明善寺とも表記されます。 しかしながら現地に明禅寺という寺はなく、東麓の恩徳寺の北側から畑の中の道を抜けると、 上の地図のとおり城山への登山道があります。途中には土留めの石垣や竪堀状地形が見ら れますが、遺構かは不明です。 明禅寺城の大きな特徴は、山頂の主城域とは別に、城山の峰先側に広い曲輪面積に比べ 防備が中途半端な副城域があることです。直感的には、副城域は宇喜多氏・三村氏どちらか が設けた陣城空間のように見えます。三村氏は150の兵しか配置しなかったことを鑑みると、 可能性が高いのは宇喜多氏でしょう。 山道を登った先の城山の鞍部から、先端側に下れば副城域、頂上へ向かえば主城域となり ます。副城域へ下りるとまず堀切があり、その先は2段程度に広く削平されています。両段とも 虎口状の開口部をもつものの間の切岸は浅く、前述の通り防備は甘いといわざるをえません。 鞍部から山頂方面へ進むと、しばらく自然地形の尾根を上がったのち、2段ほどの腰曲輪を へて本丸に至ります。明禅寺城のもう1つの特徴として、外見からは想像がつかないほど岩の 山であるという点があ上げられます。本丸周辺にも特徴的な巨岩露岩がごろごろとしていて、 要害を成していると同時にそれほど長期間にわたって使い続けるような城には思えませんで した。現地説明板には本丸の背後にも腰曲輪が1段あると書かれていましたが、やはり岩が 露出していてどこを指しているのかよく分かりませんでした。その下には、尾根筋に堀切跡の ような地形も見られましたが、遺構かどうかは定かでありません。 |
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北東から明禅寺城跡を望む。 | |
登山道脇の土留め石垣。 城の遺構かは不明です。 |
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同上。 | |
同じく竪堀状地形。 | |
城山鞍部から本丸へ向かう尾根筋。 | |
主城域の腰曲輪切岸。 | |
同上。 | |
腰曲輪跡。 | |
本丸北端付近のようす。 | |
本丸の巨岩および凹地形。 用途は不明です。 |
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本丸のようす。 | |
本丸の南端と説明板。 | |
本丸南側下の巨岩。 この上が腰曲輪か。 |
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本丸南方の尾根筋。 堀切跡か。 |
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副城域後端の堀切。 | |
同上。 | |
副城域の虎口状地形。 | |
副城域上段の曲輪。 | |
上段と下段の間。 切岸跡か。 |
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下段の曲輪。 | |
下段曲輪の虎口状開口部。 |