中込城(なかごめ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 堀跡か
 交通  : JR飯田線北殿駅徒歩15分


       <沿革>
           地誌などで古くから城跡であることは認識されていたが、その歴史については不明で
          ある。


       <手記>
           天竜川の河岸を2本の沢が削った、舌状の台地を利用した城です。城跡は大部分が
          住宅地となっていて、公民館前に城址標柱となかなかに詳しい説明板が設置されて
          います。公民館自体はギリギリ城外で、その裏手が最後尾の堀切跡のようです。
           また、住宅と田んぼの境を北へ向かうと、小沢が谷に落ち込む切れ込みがあります。
          現地説明板によれば、これも堀切の跡だろうとのことでした。また、台地から先端下へ
          おりる切通し道も、あるいは主郭の堀跡を利用したものと思われます。ちなみにこの道
          は、かなり細く途中に文字通りのヘアピンカーブがあり、かなり小回りの利く車でないと
          通行は危険です。
           さて、はっきり城跡と認識されている中込城ですが、その沿革は不明です。説明板
          では「福与城の支城的性格が強いとする説が一般的」としていますが、その場合でも
          誰が築いたかで意味合いが変わってきます。
           中込城の特徴としては、伊那市の春日城と縄張りがよく似ている点が挙げられるで
          しょう。春日城もまた、その縄張りが武田氏によるものか、それ以前の伊那部氏のころ
          のままなのか定かではありません。前者であれば、天文十四年(1545)の福与城攻め
          以降に築かれたと思われ、後者であればそれより前ということになります。
           もう1つの論点として、すぐ北にある棚木城と併存していたのかどうかも気になります。
          していたとすれば、あまりに近接していることから、福与城主藤沢頼親が伊那の国人を
          糾合して武田晴信に抗した際に、支城網として築かれた可能性も考えられるでしょう。
          いずれにせよ、かなりの規模を有しながら史料には見られず、考古学的検証も難しい、
          謎多き城といえます。
           ちなみに、長野県内には佐久市にも中込城があり、そちらの読みは「なかごみ」です
          が、こちらは「なかごめ」となります。地名の由来は同じと思いますが、どういう意味なん
          でしょうね。

           
 中込公民館前の城址標柱と説明板。
主郭のようす。 
 手前の切通し道は主郭の堀跡か。
1条目の堀切跡とされる小沢(左手藪の中)。 
 同じく1条目の堀切跡とされるライン。


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