要害山城(ようがいさん)
 別称  : 金尾山城、金尾要害城
 分類  : 山城
 築城者: 藤田重利(康邦)
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : 秩父鉄道波久礼駅徒歩30分


       <沿革>
           現地説明板によれば、天文元年(1532)に藤田重利によって築かれたと伝わると
          ある。城主は金尾弥兵衛で、山麓の伝蔵院はその居館址とされているが、金尾氏
          の出自については不明である。
           さらに説明板には、天正十八年(1590)の小田原の役で鉢形城とともに落城した
          とあるが、典拠は詳らかでない。


       <手記>
           要害山城は、荒川の屈曲部に突き出た要害山ないし金尾山山頂に築かれた城
          です。城址一帯は金尾山公園なっており、南麓の峠道脇には立派な駐車スペース
          も設けられています。結構大々的に公園整備がなされているのは、昭和三十四年
          にここで全国植樹祭が行われ、当時の天皇皇后両陛下が檜をお手植えになった
          からだということで、現在では斜面一面にヤマツツジが植えられています。このため、
          山頂を除いた中腹の地形については、城の遺構なのかどうか判別できなくなって
          います。
           頂上には、櫓台といわれる詰曲輪のような小さい曲輪があり、木製の展望台が
          建てられています。周囲の木々も整理されており、ここからの眺望は絶佳です。
          三方にはとくに遮るものはないので、櫓台とはいっても実際にここにわざわざ高層
          建築をプラスして設ける必要はなかったものと思われます。
           展望台に登ってみて気付くのは、当方の花園城や鉢形城は視界に収めることが
          できるものの、西方の天神山城仲山城は直接視認することができないということ
          です。要害山城は一般に東西の連絡用の砦といわれ、なかんづく学研『戦国の城
          (上)』などでは、烽火による情報伝達ルートが整備されていたと指摘されています。
          ですが、要害山城の位置では西方との伝達に難があり、峠を挟んだ南側の峰にも
          烽火台が設けられていなければ、不完全といえます。逆に仲山−要害山−花園
          のルートが確立されていれば、『戦国』で伝達経路に加えられている花園御嶽城
          虎ヶ岡城猪俣城などは、烽火レース中継点としての必要性を失うことになります。
          北条氏が烽火や鐘撞による伝達網の整備を重視していたことは諸史料から明らか
          と思われますが、実際の経路についてはなお検討する余地があるのではないかと
          感じました。
           櫓台の下は愛宕神社が鎮座する広めの曲輪となっており、実質的な主郭だった
          ものと思われます。この曲輪の南端付近に四阿があり、その下にもう1つ腰曲輪が
          続いているところまでは確認できますが、その先については前述の通り公園化に
          よって判断が付きかねます。
           神社から北東の尾根筋に少し下ると、土塁、桝形虎口状の土盛り、堀切跡、そこ
          から続く竪堀が見受けられます。このうち堀については城の遺構と見て間違いない
          と思いますが、虎口については公園化による造作の可能性も捨てきれません。
           要害山城は、先の通りの烽火ルートに不可欠であると同時に、鉢形から天神山
          までの最短歩行ルートの峠道と、波久礼駅前付近にあったとされる殿倉の渡しを
          押さえることのできる要衝の城砦でもあります。したがって、金尾弥兵衛なる人物
          の詳細は不明ですが、それなりに重責を負える立場にあったのではないかと拝察
          されます。

           
 愛宕神社境内から櫓台を望む。
四阿のある曲輪を俯瞰。 
 
 四阿付近から櫓台を見上げる。
展望台からの鉢形方面の眺望。 
中央左の白い建物の左手奥に、 
花園城と鉢形城が望めます。 
 展望台からの長瀞方面の眺望。
 仲山城と天神山城は視界に入れることができません。
愛宕神社北東尾根筋の土塁。 
 桝形虎口状地形。
堀切跡。 
 堀切から続く竪堀跡。


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