堂山(どうやま)
 別称  : 台の堂山
 分類  : 平城
 築城者: 不明
 遺構  : なし
 交通  : 東武東上線朝霞駅徒歩20分


       <沿革>
           臺村の旧家金子家の一角に、正安三年(1301)と銘の入った板石塔婆が伝わっている。『新編
          武蔵国風土記稿』によれば、名主金子家の裏手を「堂山」と呼んだとされる。同じ朝霞市内の広沢
          にも「堂山」が存在するため、広沢堂山に対して台の堂山と区別する場合もある。
           『小田原衆所領役帳』によれば、後北条氏時代に「江戸広沢内代山根岸」を太田康資が治めて
          いたとされる。朝霞市岡の東円寺の寺伝には、寺の近くに太田道灌が城(岡の城といわれている)
          を築いたとあり、『別本太田系図』には道灌の曽祖父資通が康安元年(1361)に父資益の遺領と
          して広沢を含む領地を受け継いだとある(ただし、資通・資益父子の存在は『別本』にしか書かれて
          いない)。これらのことから、康資以前にすでに周辺は太田氏の所領であったものと推測される。
           堂山に城館があったという確証はないが、北東の台地先端からは中世の城郭遺構が発見され、
          台の城山と呼ばれている。


       <手記>
           小字堂山とは、台雲寺前の道路が90度に折れる内側を指すそうです。すぐ脇には、民家の敷地
          内に板石塔婆が保存されています。「堂山」を「城山」の転訛とみたものと思われますが、板碑や
          塔婆の存在から、かつて字のごとく何らかのお堂があったのではないかとも考えられます。
           堂山は北東方面に対してやや微高地となっていますが、山と呼ぶほどの高低差はなく、城館を
          築くような地形的な条件はほとんど見出せません。あったとしても、在地領主の館以上のものでは
          なかったでしょう。堂山の西の馬堀遺跡からは中世の溝が検出されており、これが館遺構である
          とすれば、堂山や台の城山をセットで周辺を治める統治機関があった可能性も考えられます。

           
 堂山現況。
堂山脇の板石塔婆。 


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