府内城(ふない)
 別称  : 荷揚城、白雉城、大分城
 分類  : 平城
 築城者: 福原直高
 遺構  : 櫓、石垣、堀
 交通  : JR日豊本線大分駅徒歩15分


       <沿革>
           慶長二年(1597)、府内12万石に封じられた福原直高(長堯)によって築城が開始された。
          直高の前任の早川長政(府内1万3千石と豊後国内の太閤蔵入地を領した)は、大友吉統
          (義統)が文禄二年(1593)に改易されたのちも大友氏館に住していたが、慶長の役での
          落ち度を理由に改易された。直高は臼杵城6万石からの倍増という大幅加増であったが、
          背後には直高の義兄にあたる石田三成(直高の妻の実兄)の暗躍があったといわれる。
          直高は大分川の河口付近に選地したが、大友氏時代に港があったことから「荷落(ち)」と
          呼ばれていたため、縁起をかついで「荷揚」と改称した。
           築城に際して、直高は周辺諸城から石材を徴発したが、船で広く巨石を求めた。しかし、
          船が集まったところで石材の値段を下げたため、船頭たちは怒って石を海中に投げ捨てた。
          直高はここぞと石を拾って工事に充てたと伝わる。また、河口の浜辺に石垣を築く工事は
          難を極め、とくに湧水に悩まされた。このとき、上野六坊に住むお宮(またはおみわ)という
          貧しい娘が家族の生活を引き替えに人柱となった。お宮を祀った祠は、今も天守台の下に
          残っている。さらに、水害は生石村の名主二宮氏の献策によって解決したとも伝わる。
           直高は慶長四年(1599)四月に荷揚城に入ったが、翌五月には府内領6万石を没収されて
          臼杵領6万石へ戻った。背景には、同年三月に三成が失脚したことが大きく影響していると
          される。直接の理由は@大友氏館を廃して新城を築いたことAその際に領民を酷使したこと
          B軍功もないのに領地が倍になったことC朝鮮の役での軍監としての報告に偏りがあった
          こと、が挙げられている。しかし、@は当時の多くの大名が行ったことであり、むしろ中世の
          守護館以来の大友氏館を使い続ける方が異常といえる。Aについては、荷揚城の場合は
          日当の払いが良く、領民や人夫には喜ばれたともいわれ、改易に値するほど劣悪な環境に
          あったのかは疑いが残る。Bについても加増を決めたのは秀吉なので、それについて直高
          がとやかくいわれるいわれはない。このように、直高の減封の理由にはこじつけと思われる
          部分が多く、三成の失脚に連座したと考えるのが自然である。なお、当時臼杵城には太田
          一吉が入っており、直高の「臼杵領」がどこを指すのかは定かでない。
           府内領主には、長政が2万石で返り咲いた。しかし、翌慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い
          で長政は西軍に属したため、戦後改易された。代わって、竹中半兵衛重治の従弟にあたる
          竹中重利が、3万5千石で入封した。翌年から、重利は城の未完成部分の改修に着手した。
          翌慶長七年(1602)に四層の天守が上げられ、荷揚城は完成した。さらに、同十年(1605)
          からは惣堀が建設され、同十三年(1608)には城の北西に港が新設された。
           重利の子采女正重義は、長崎奉行として苛烈なキリシタン弾圧を行ったことで知られる。
          しかし、鎖国体制がはじまると、寛永十一年(1634)に密貿易の罪を告発されて切腹を命じ
          られた。竹中家は断絶となり、日根野吉明が2万石で跡を襲った。
           明暦二年(1656)、吉明が嗣子なく没すると日根野家も断絶となり、荷揚城は臼杵藩主
          稲葉信通預かりとなった。万治元年(1658)、大給松平忠昭が豊後高松藩から2万2千石
          で入封し、以後松平家が10代を数えて明治維新を迎えた。この間、寛保三年(1743)には
          城の大部分を焼失する火事があり、天守も焼け落ちたが、再建されることはなかった。

          
       <手記>
           府内藩が荷揚藩と呼ばれたことはないようですが、荷揚城がいつごろから府内城と呼ば
          れるようになったのかは定かではありません。現在、城跡は大分城公園となっていますが、
          大分城と呼ばれるようになったのは明治維新以後のことです。
           大分城公園には当時の主城域が取り込まれていますが、本丸堀(内堀)は埋め立てられ、
          本丸と東の丸、西の丸が一体となっています。城内には人質櫓と宗門櫓の2基が現存して
          います。その他、大手門と4基の二重櫓が、続塀などとともに鉄筋コンクリートで復興されて
          います。このうち、南東隅の二重櫓はもとは平櫓であったとされています。また、平成九年
          (1997)には、西の丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋が木製で推定復元されました。
           これらの諸櫓や石垣を眺めるには公園の外側を一周するのが一番です。とくに東側の堀
          は他の近世城郭と比べてもかなり広く、晴れた日には堀の水に逆さ櫓が綺麗に映ります。
          城の東側は今も細い帯曲輪となっていますが、当時はこの帯曲輪が北までめぐり、防波堤
          のようにその外側はすでに海となっていました。
           幅の広い内堀(二の丸堀)のほか、天守台を中心に本丸が象限状に区分されていること
          や、方形のニの丸が周囲を囲んでいること、堀面すれすれに犬走りがめぐっているといった
          点は、藤堂高虎が築いた今治城や津城などとの類似が指摘されています。ただ、主城域
          の縄張りに携わった直高や重利と高虎の間に特別な関係があったようには思えず、類似の
          理由については分かりません。

           
 宗門櫓(右)と西の丸隅櫓(左)。
西の丸隅櫓。 
 復興大手門。
着到櫓。 
 東の丸南東隅櫓。
 当時は平櫓だったようです。
内堀(二の丸堀)越しに東の丸北東隅櫓を望む。 
 東の丸北東隅櫓。
東の丸東側の帯曲輪。 
画面左手が東の丸。右手はかつては海でした。 
 復興廊下橋。
人質櫓(左)と天守台(右手奥)。 
天守台下の凹んだところにお宮の祠があります。 
 人質櫓(現存)。
天守台。 


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