延岡城(のべおか)
 別称  : 縣城、亀井城
 分類  : 平山城
 築城者: 高橋元種
 遺構  : 石垣
 交通  : JR日豊本線延岡駅徒歩15分


       <沿革>
           関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、縣領主高橋元種によって築城が開始された。元種は
          筑前の秋月種実の次男で、同じく筑前の名族である高橋鑑種の養子となっていた。鑑種は
          大友氏一族一万田氏の出だが、毛利氏に通じたため九州を逐われた(岩屋城の項参照)。
          高橋氏の名跡は吉弘鑑理の次男鎮種(紹運)が継いだが、天正六年(1578)の耳川の戦い
          での敗北により大友氏が衰退すると、種実は島津氏に通じて筑前での復権を図り、鑑種も
          元種を養子に迎えて種実と連携し、大友方の香春岳城を奪って九州へ返り咲いた。
           天正十五年(1587)、元種は豊臣秀吉の九州平定に際して降伏し、日向国縣5万3千石に
          封じられた。当初は、縣の旧領主土持氏の居城松尾城に住んだといわれる。この松尾城を
          して、延岡城や縣城と呼ばれることもあるが、「延岡」の呼称が用いられるのは江戸時代に
          入ってからのことである。「縣」についても本来は地域名であり、松尾城が縣城と呼ばれた
          歴史的事実はない。
           『日本城郭大系』によれば、元種が新規築城に至ったのは、関ヶ原の戦いで近世城郭の
          必要性を痛感したからとされる。事実、同戦いにおいて元種は東軍に寝返って所領を安堵
          されたものの、飫肥城の伊東氏の軍勢に宮崎城を攻め落とされている。
           城は慶長八年(1603)に完成した。しかし、同十八年(1613)、元種は突如改易となった。
          表向きの理由は、罪を犯した津和野藩主坂崎直盛の家臣水間勘兵衛を匿ったためとされる
          が、実際には大久保長安事件に連座したものと考えられている。勘兵衛を隠匿した大名は
          元種のほかに富田信高と加藤忠広がいたが、長安と縁戚関係にあった信高と元種のみが
          改易とされ、加藤家はお咎めなしであったことがその傍証として挙げられている。なお、元種
          時代には、城は一貫して縣城と呼ばれていた。
           縣は一旦天領となったが、翌慶長十九年(1614)に、有馬直純が日野江城から入部した。
          この移封は、父祖伝来の領内でのキリシタン弾圧に耐えかねた直純が幕府に願い出たもの
          とも、キリシタンと有馬氏の繋がりを恐れた幕府によるものともいわれる。直純の子康純は、
          承応二年(1653)から明暦元年(1655)にかけて、縣城の改修を行った。明暦二年(1656)
          に康純が寄進した梵鐘の銘文に初めて「延岡」の呼称がみられ、改修の前後に改称された
          ものと推測される。この改修では、天守代用の三階櫓も上げられたが、天和三年(1683)の
          火災により焼失し、以後再建されることはなかった。
           有馬家は、康純の子清純の代に百姓一揆が発生したため、責めを負って越後国糸魚川
          へ移封となった。その後、三浦家1代、牧野家2代と譜代大名が続き、延享四年(1747)に
          やはり譜代の内藤政樹が磐城平より7万石で入封すると、以後内藤家が8代を数えて明治
          維新を迎えた。


       <手記>
           延岡城は、五ヶ瀬川と大瀬川の合流点にある小丘上に築かれた城です。五ヶ瀬川を遡る
          と、松尾城址やそれ以前の土持氏の居城である西階城址があります。地勢的に、縣城築城
          以前から支城が存在していてもおかしくない感じですが、仔細は不明です。
           現在、主城域は城山公園として解放されています。各種古絵図では、山頂の曲輪を本丸
          とし、1段下に本丸を囲う曲輪が二の丸、二の丸の西側下に三の丸と続いています。しかし、
          現地の説明では、二の丸の南半分を本丸、北半分を三の丸とし、絵図での三の丸を二の丸
          としています。これでは、三の丸の下に二の丸が置かれていることになり、また山頂の曲輪
          を何と呼ぶのかも示されておらず、明らかに不自然です。したがって、本項では前者の呼称
          に準拠します。
           古絵図や文献によれば、延岡城には三階櫓と二階櫓の2基の櫓があったとされています。
          三階櫓は、前述の通り天守の代用でしたが、どこにあったのかについては、2説あるようです。
          1つは、現在鐘撞き堂が立っている本丸の天守台と呼ばれる一角です。本丸の通称「城山の
          鐘」は、すでに江戸時代から城下の人々に時刻を知らせており、今も現役です。初代城山の
          鐘は、前述の有馬康純寄進の梵鐘で、はじめ五ヶ瀬川を挟んで北に位置する今山八幡神社
          に安置されていたとされることから、この説では三階櫓焼失後に鐘が櫓台跡に移設されたと
          みているようです。
           もう1つは、本丸北1段下の腰曲輪(二の丸の延長上)の隅にある櫓台跡です。現地には、
          「三階櫓跡」の標柱が立ち、本丸天守台にはない基壇石積みもあります。この説では、当初
          から本丸には天守台しかなかったものとしています。天守台周辺は公園化や建物の建設で
          かなり改変されており、実際のところどちらが正しいのかは何とも判じがたい感じです。
           二階櫓の方は、二の丸二階櫓門外に細長く伸びる腰曲輪の先端にあったとされています。
          二の丸と三の丸の間に位置するこの曲輪を、何と呼ぶのかは不明です。現在、櫓台跡には
          晩稲晩化記念碑が立っています。
           延岡城の遺構でもっとも知られているのは、二の丸の「千人殺しの石垣」でしょう。城内で
          最大級であろうこの石垣は、一番下の隅石を外すと、石垣全体が崩れ、その下にいる千人
          の兵を圧死させられるというものです。それだけの威厳をもつ石垣ではありますが、本当に
          そのような仕掛けがしてあるとは思えません。1回しか使えないうえに、使用後は二の丸が
          丸裸になってしまいますし、隅石は数人程度で外せるものとは思えず、城側も数十人単位
          のグスコープドリが必要ということになるので、とても効率的とはいえません。
           三の丸は、かつては簡易動物園だったそうですが、現在は広場となっています。三の丸北
          の北大手門は、城内唯一の建造物として復元されています。三の丸から谷を挟んだ北西の
          丘は西の丸と呼ばれ、有馬家以降御殿が置かれ、実質的な藩の政庁となっていました。
          現在は内藤記念館となっています。

           
 復元北大手門。
二の丸「千人殺しの石垣」。 
 三の丸の井戸跡。
三の丸のようす。 
 二階櫓跡を望む。
 二の丸二階櫓門跡。 
 二の丸のようす。
二の丸北側のようす(現地説明では三の丸)。 
 二の丸石御門跡。
本丸北腰曲輪の伝三階櫓跡。 
 本丸天守台跡。
本丸のようす。 
 本丸からの眺望。


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