日野江城(ひのえ) | |
別称 : 有馬城、有間城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 有馬経澄か | |
遺構 : 石垣、堀、曲輪 | |
交通 : 島原市街などからバスに乗り、 「橋口」下車徒歩10分 |
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<沿革> 肥前の戦国大名有馬氏の居城である。肥前有馬氏は藤原純友の末裔を称して いるが、平清盛の祖父正盛に討たれた平直澄を祖とするともいわれる。建保年間 (1213〜19)に藤原経澄が高来郡有馬荘の地頭に任じられたのがはじまりとされ、 日野江城も経澄によって築かれたとされるが確証はない。当初は「有間」とも表記 されていた。 有馬氏は肥前に割拠する国人領主の1人にすぎなかったが、戦国時代の当主 有馬貴純の代に勢力を拡大した。貴純はまた原城を築き、日野江城との2城体制 としたともいわれる。 貴純の孫晴純の代に、有馬氏は松浦郡まで勢力を伸長して最盛期を迎えた。 しかし、晴純の子義貞のころになると龍造寺氏の圧迫を受けて衰退した。 義貞の跡を継いだ晴信は熱心なキリシタン大名として知られ、日野江の城下に セミナリヨを建設し、領内の40を超える寺院を破壊したとされる。日野江城からは 仏塔などを転用した直線状の階段遺構が発掘されており、晴信によって造られた ものと推定されている。 天正六年(1578)、晴信は龍造寺隆信の攻勢に耐え切れず降伏した。しかし、 同十二年(1584)に離反して島津氏に臣従し、島津家久の援軍を得た沖田畷の 戦いで、隆信を敗死に追いやった。同十五年(1587)に豊臣秀吉が九州平定に 乗り出すと、秀吉のもとに馳せ参じて所領を安堵された。 江戸時代に入っても日野江城は日野江藩4万石の居城であったが、慶長十七 年(1612)の岡本大八事件で晴信は死罪とされた。晴信の子直純は、徳川家康 の養女(本多忠政の娘)を室としていたため家督を継ぐことが許されたが、転封を 願い出て延岡(縣)へと移った。 日野江領は一時天領となったが、元和二年(1616)に松倉重政が大和五条藩 から4万石で入封した。重政は日野江城に入ったものの、領内の南に寄りすぎて いることから、島原城を築いて居城とした。日野江城の石材は、島原城の石垣に 数多く転用されたとされる。 <手記> 日野江は、「日之江」「日ノ江」「日江」「火ノ江」「日ノ枝」などとも表記されます。 有馬川河口の湾に臨む小高い丘陵の1つに築かれていて、それほど要害地形と いうわけではありません。原城と異なり記録上は実戦を経験したことがないので、 防衛力について云々するのもあまり意味はないかもしれません。 東麓の大手口に駐車場があり、ここから登ることができます。主城域は本丸と その下の二の丸に分けられ、どちらも数段の段築になっているのが大きな特徴 です。とくに二の丸からは、前述の仏石を多数転用した直線状の大階段が見つ かっていて、日野江城が「見せる城」であったことが如実にうかがえます。 本丸は、最上段の背後に土塁状の詰曲輪があります。詰曲輪の最高所には、 は天守台と思われる櫓台があり、今は日野江神社が置かれています。本丸の 西には三の丸があり、北には土橋や堀切、竪堀が見られるそうでうす。そちらも じっくり回りたかったのですが、時間の都合上断念しました。 日野江城と原城の両方を見学して、後者の方が規模や技術の面で進んでいる ように思えました。江戸時代の島原の乱においても、一揆勢は日野江城を利用 した形跡がありません。この点、日野江城は有馬氏の居城であり続けたものの、 秀吉の直接の命によって原城の大改築が行われたのではないかなと、個人的 に推測しています。 秀吉は西国の経略において海路を重視し、港湾に臨む地をわざわざ指定して 城を築かせたとする説が近年注目されています。例としては、筑前の名島城や 土佐の浦戸城、肥後の麦島城などが挙げられています。原城もこれに類する もので、秀吉の肝煎りで立派な石垣や天守、桝形などを備えた一大近世城郭と なったのではないかと推察されるのです。晴信としては、もともとの居城である 日野江城から目と鼻の先にあることから、原城に移り住むことまではしなかった のかな、というのが私の推測です。 |
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日野江城跡近望。 | |
二の丸の石垣。 | |
直線状の大階段跡。 | |
二の丸段築の石垣。 | |
二の丸から本丸を望む。 | |
二の丸段築を上から俯瞰。 | |
本丸のようす。 | |
本丸サイドの段築状石垣。 | |
本丸上段のようす。 | |
本丸背後の詰曲輪。 | |
詰曲輪最上段の櫓台状土塁。 | |
本丸から三の丸を望む。 | |
説明板の全体図。 |