則定城(のりさだ) | |
別称 : 則定古城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鈴木氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁 | |
交通 : 名鉄豊田市駅からバスに乗り、 「則定本郷」下車徒歩5分 |
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<沿革> いわゆる則定三城のひとつで、則定鈴木氏の初期の居城とみられる。則定鈴木氏は 三河鈴木氏の一族酒呑鈴木氏の後裔とされるが、系譜には不自然な点も多い。酒呑 鈴木氏の初代は鈴木重就の子重時とされる。重時は足助城を築いた足助鈴木氏初代 鈴木忠親の弟とされ、三河鈴木氏の本貫地である矢並から巴川沿いに勢力を伸ばして いったようすが窺える。酒呑鈴木重時について、遠江国の井伊谷三人衆に同姓同名の 人物がおり、両者を混同する記述もしばしばみられるが、活動した世代も場所も明確に 異なる別人である。 酒呑鈴木氏と則定鈴木氏の関係については詳らかでない。一般に則定城主とされて いる鈴木重次は、『寛政重修諸家譜』等の諸系図では重時の4代嫡流の子孫となって いる。足助鈴木氏は松平清康や徳川家康に攻められて降伏したとされているが、則定 鈴木氏の動向についてはやはり定かでない。 天正十八年(1590)、家康が関東へ移封となると重次もこれに従い、則定城は廃城と なったものと推測される。関ヶ原の戦いの後、重次は旧領に復帰して則定陣屋を築き、 子孫は旗本として続いた。 <手記> 則定城は、付近の則定椎城・則定小畑城と合わせて則定三城と呼ばれています。 則定川を見下ろす緩やかな独立丘の上にあり、取り立てて要害性に優れているとは 言えません。 城跡は、丘の南西麓にある本郷薬師堂の裏手から、畑地の縁を登って林を抜けた 先にあります。途中にかつての耕作地とみられる段築がいくつも見られますが、城の 造作を転用したものかどうかはわかりません。あるいは、家臣の根古屋が営まれて いたとも考えられます。 これまた城の遺構か怪しいループ状の細い坂を上がると、主郭に至ります。基本的 に単郭の城とみられ、切岸や虎口様の遺構はありますが、堀などは認められません でした。 さて、則定三城のうち、小畑城は巴川の渡河点監視施設と思われます。小畑城と 則定城が単郭なのに対し、残る椎城は規模が格段に大きく、かなり高所に築かれて います。少なくとも一番最後に手を加えられたのが椎城であることは明白で、則定城 はつとめて土豪の詰城程度にとどまっています。おそらく、則定鈴木氏が移ってきて 最初に築かれたのが則定城であったものと推察されます。 |
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城跡への入口の本郷薬師堂。 | |
主郭と則定城跡標柱。 | |
主郭の虎口跡か。 | |
主郭の土塁。 | |
主郭へ向かう途中の段築。 遺構かどうかは不明。 |
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薬師堂から登って最初に見える段築。 やはり遺構かどうかは不明。 |