v | 則定陣屋(のりさだ) |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 鈴木重次 | |
遺構 : 石垣 | |
交通 : 名鉄豊田市駅からバスに乗り、 「則定本郷」下車徒歩2分 |
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<沿革> 則定の領主鈴木重次は、天正十八年(1590)に主君徳川家康に従って関東へ移ったが、 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後に旧領へ復帰した。重次は則定三城のひとつ椎城 の麓に新たに則定陣屋を築いた。 重次の跡を継いだのは三男の重成で、長男の正三は別家を興した。重成は寛永十四年 (1637)に発生した島原の乱において、原城攻めでの一番乗りの功を賞された。同十八年 (1641)、同乱で荒廃した天草の天領代官として富岡城に入ったのが、ほかならぬ重成で あった。重成は天草の復興だけでなく、出家していた兄の正三を招いて、仏教の布教にも 努めた。4万2千石という表高が、実高に比べて過大にすぎるとして幕府に再検地を要望 した重成は、承応二年(1653)に天草領の年貢減免を訴え抗議の切腹を行ったとされる。 ただし近年では、重成の死因は病気であったとする説も有力視されている。 富岡代官は正三の長男重辰が重成の養子となって引き継いだが、則定鈴木家は重成 の実子の重祐が継いだ。その後も鈴木家は則定領主として続き、明治維新を迎えた。 <手記> 則定小学校が陣屋跡です。則定椎城への登城路が学校の東脇にあり、それを登ると グラウンドの奥にひっそりと「則定陣屋跡」の標識があります。その脇に小さな石積みが あるのですが、陣屋の遺構かは不明です。また、グラウンドは校舎より1段高いところに あり、どちらも陣屋跡を利用しているとなると、則定陣屋は2段構えだったことになります。 後者の西辺から南西辺にかけて石垣が残っているそうなのですが、このときは知らず 東辺を上り下りしたので、気づかずに帰ってしまいました…。もう少し下調べをしておけば と悔やまれます。 |
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城跡への入口の本郷薬師堂。 | |
主郭と則定城跡標柱。 |