富岡城(とみおか)
 別称  : 臥龍城、富岡陣屋
 分類  : 山城
 築城者: 寺沢広高
 遺構  : 石垣、曲輪、虎口、堀
 交通  : 本渡バスセンターからバスに乗り、
       「一丁目」バス停下車徒歩20分


       <沿革>
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの功により、天草4万2千石は唐津城主寺沢広高に
          与えられた。同七年(1602)、広高は天草で唐津から海路でもっとも近い袋湾の背後の
          丘に新規築城を開始し、富岡城は同十年(1605)に完成した。
           天草には城代が派遣されたが、当初の在任者は定かでない。元和七年(1621)から
          は、三宅藤兵衛重利がその任に服した。重利は明智秀満の子で明智光秀の孫と伝え
          られる。
           寛永十四年(1637)、島原藩の領民が決起して島原の乱が勃発すると、天草の領民
          も天草四郎(時貞)を旗頭として蜂起した。重利は軍を率いて鎮圧に向かったが、本渡
          で一揆勢に敗れ戦死した。勢いに乗った一揆勢は、十一月十九日に富岡城へ迫り、
          二手に分かれて攻撃を開始した。城兵は九州の名族大蔵氏の嫡流にあたる原田嘉種
          (伊予)の指揮のもと粘り強く抵抗し、一揆勢は本丸に肉薄したものの、攻め落とすこと
          はできなかった。
           島原の一揆軍も島原城を抜くことができず、九州諸大名の討伐軍が進発しはじめて
          いたことから、四郎らは十一月二十四日には攻城を諦め島原半島へ渡った。両一揆軍
          は原城に籠もって討伐軍を迎え撃ったが、翌寛永十五年(1638)四月に鎮圧された。
          乱後、広高の子堅高は責任を問われ、天草領を没収された。
           翌寛永十六年(1639)、備中成羽から山崎家治が天草へ転封となり、富岡藩が成立
          した。家治は築城の名手として知られ、百闢y手(百間塘)を構えて内堀を兼ねた袋池
          を設けた。当時は堀切だった砂嘴の付け根に大手門を建造し、改修工事は同十八年
          (1641)ようやく完了した。しかし、家治はその年のうちに丸亀藩へ移封となり、天草は
          再び天領となった。
           代官として幕府から派遣されたのは、原城攻めで一番乗りの功を賞された鈴木重成
          であった。鈴木家は三河鈴木氏の一族で、三河国則定に陣屋を構える譜代の旗本で
          ある。重成は荒廃した天草の復興だけでなく、出家していた兄の正三を招いて仏教の
          布教にも努めた。また、4万2千石という表高が実高に比べて多すぎるとして、幕府に
          再検地を要望した。承応二年(1653)、重成は天草領の年貢減免を求めて抗議の切腹
          を行ったとされる。天草には重成を讃えた鈴木神社があるが、近年では重成の死因は
          病気であったとする説も有力視されている。天草代官は正三の長男の重辰が重成の
          養子として継ぎ、彼の在任中の万治二年(1659)に、天草の石高は2万1千石に半減
          された。
           寛文四年(1664)、戸田忠昌が田原藩から天草へ転封となり、富岡藩が復活した。
          同十年(1670)には、領民への負担に配慮して富岡城の本丸と二の丸が破却され、
          山麓の三の丸を残して陣屋とした。この忠昌の英断は、「戸田の破城」として後世まで
          称賛された。さらに忠昌は、「天草は永久に天領であるべきの地」と上申し、翌十一年
          (1671)に関東周辺の所領へと替えられた。
           以後、天草は天領となり、富岡陣屋は明治維新まで代官所として利用された。

          
       <手記>
           富岡城のある富岡半島は、函館山や江ノ島などと同じ砂嘴で結ばれた陸繋島です。
          ただ、半島内には大小たくさんの丘が散在していて、川や谷戸も形成されています。
          城の立つ丘は、袋湾の港に面しているという理由で選ばれたのでしょうが、必ずしも
          要害性に優れているとはいえません。それ以上に砂嘴の出入口をふさいでしまえば、
          陸からの侵入経路が断たれるため防御も容易となると思われますが、天草の乱の
          ときには堀切しかなかったということで、本丸まで攻め込まれたというのも納得です。
           遺構としては、本丸の石垣はほとんど完存していたものの、二の丸以下の石垣は
          部分的に残るのみだったそうです。平成六〜十七年(1994〜2005)にかけて復元
          整備事業が行われ、二の丸や出丸の石垣が美しくよみがえりました。また、複数の
          櫓や本丸の城門も建てられていますが、これらがどの程度史料に基づいたものかは
          怪しいところです。本丸の北辺と西辺にまたがる多聞櫓は、富岡ビジターセンターと
          して開放されていて、入館は無料です。
           面白いと思ったのは、二の丸に正三・重成兄弟の立派な像が建てられていること
          です。原城と並んで島原・天草の乱で実戦を経験し、なおかつ落城を免れていると
          いうのに、城内で乱に関するものは意外なほど目にしませんでした。天草の人たち
          にとっては、天草の荒廃を招いた一揆よりも、その後の復興に焦点を当てる方が
          有意義と考えているのかなぁ、と個人的に気になりました。ちなみに、鈴木家の本領
          である愛知県の則定にも、同様に二人並んだ正三・重成兄弟の像があります。
           二の丸の石垣は、復元に先立つ発掘調査で三重になっていたことがわかりました。
          もっとも内側の、寺沢氏時代の石垣には攻城戦の際の焦げ跡が残っていて、2番目
          の石垣はこれを覆い隠すように急ごしらえで築かれたと見られています。そのため、
          2番目の石垣は部分的に崩壊していて、さらにその上に、山崎氏によるものとみられ
          るもっとも新しい石垣が組まれています。三重の石垣は仙台城本丸でも見つかって
          いますが、東西離れたところで石垣を重ねるという同じ手法が採られているというの
          は、とても興味深いといえます。
           三の丸は、九州大学の施設敷地となっていて入れません。百闢y手やその脇の
          追手門跡(寺沢氏時代の大手)、半島入り口の大手門跡など、山麓にも石垣を伴う
          遺構が点在しています。位置的に車がないとなかなか訪れるのは難しいですが、
          寺沢広高と山崎家治という2人の築城名手が携わった近世城郭として、たいへんに
          見ごたえがあります。櫓や石垣がまだ新しく白いので、とくに晴れの日には青空に
          よく映えます。

           
 志岐城跡から富岡城跡を望む。
百間土手越しに本丸を見上げる。 
 同じく袋池越しに見上げる。
追手門跡石垣。 
 二の丸の復元石垣。
同上。 
三重石垣が検出された付近。 
 出丸のようす。
二の丸東辺の枡形跡。 
 二の丸から本丸多聞櫓(ビジターセンター)を見上げる。
二の丸から本丸方面を望む。 
 本丸復元城門。
本丸から二の丸方面の眺望。 
 本丸から大手方面の眺望。


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