小手森城(おでもり) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 大内氏か | |
遺構 : 曲輪跡 | |
交通 : JR東北本線二本松駅からバスに乗り、 「宮の平」下車徒歩10分 |
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<沿革> 小浜城主大内氏によって築かれたとみられているが、築城の経緯については定かでない。 主君・石橋尚義を四本松城から追放して下克上を果たした大内義綱は田村氏に従属していた が、その子・定綱は自立を図って蘆名氏に鞍替えした。天正十二年(1584)に田村氏の縁戚で ある伊達政宗が家督を継ぐと、定綱は伊達氏への臣従を一度は誓ったものの、態度を翻した ため政宗の怒りを買った。翌十三年(1585)閏八月、政宗は手始めに小手森城へ攻め寄せた。 城は定綱の甥・菊池顕綱をはじめ小野主水や荒井半内、石川勘解由、小形源五兵衛といった 面々が守っていたが、激しい攻防戦の末に落城した。このとき、政宗は農民などの老若男女を 合わせ、城に籠っていた800余名すべてを撫で斬りにしたと伝わる。これを見た定綱は戦意を 喪失し、蘆名氏を頼って落ち延びた。 次いで二本松城を標的とした政宗は小浜城に入り、まもなく政宗の父輝宗も宮森城へ入城 した。二本松(畠山)義継は降伏を申し出たが、所領のほとんどを召し上げるという厳しい条件 を突きつけられ、進退に窮して粟ノ巣の変を引き起こし、輝宗と共に殺害された。政宗はこの のち、人取橋の戦いを経て翌天正十四年(1586)に二本松城が開城するまで、小浜城を仮の 居城とした。 戦後、元は大内氏と同じ石橋四天王の1家の流れを汲む石川弾正光昌が伊達氏に臣従して 小手森城主に封じられた。しかし、光昌は天正十六年(1588)の郡山合戦に際して相馬義胤に 通じ、政宗に叛旗を翻した。同年閏八月十六日、小手森城は再び政宗に攻め落とされ、今度は 500名余が討ち取られたといわれる。また、この戦いには同年三月に伊達家へ帰参した定綱も 攻城側で参戦していた。 光昌は義胤を頼って落ち延び、小手森城はそのまま廃城となったとみられている。 <手記> 針道市街の南方にある円錐形の小山が、政宗の撫で斬りで有名な小手森城です。頂上には 愛宕神社が祀られ、南麓から長い階段を登れば辿り着けます。しかしながら、境内に至るまで はっきり城跡と分かるような造作は見られません。境内も広いとはいえず、主郭には違いない のでしょうが、やはり城館らしさはありません。 城跡であることを唯一実感できるのは、本殿裏手北東尾根の削平地です。境内に対して1段 低くなっており、あるいは境目に浅いながら堀切があった可能性も考えられます。尾根は細長く 削平され、先端部下には付壇も見られます。とはいえ、境内と合わせても100人立て籠もれば ぎっちぎちな感じです。こうなると、周囲のちょっとした地形がなべて遺構のように見えてしまい、 何でも遺構病を抑えるのに大変でした^^; とはいえどう贔屓目に見ても、愛宕神社周辺のスペースで800人も500人も収容できるはずは なく、小手森城の戦いの実態がいかなるものであったのか、大いなる謎です。あるいは山全体 に立て籠もったとも考えられますが、大内氏が拠点とし、さらに石川光昌に与えられていること から、それなりに整備された城砦であったと考えるのが普通のところ、この貧弱さの説明がつき ません。 政宗公の歴史にまつわる城跡を訪ねたという実感以上に、未消化感の残る訪城でした。 |
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西から小手森城跡を望む。 | |
愛宕神社参道。 | |
愛宕神社。 | |
本殿脇の説明板。 | |
本殿北東裏尾根の曲輪。 | |
北東裏尾根から境内を見上げる。 | |
北東尾根先端部のようす。 | |
先端部下段のようす。 | |
北西下から境内を見上げる。 | |
参道脇の斜面。 切岸に見えてしまいますが…。 |