安戸城(やすど)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 上田氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 東武東上線/JR八高線小川町駅
      からバスに乗り、「寺岡」
      下車徒歩15分


       <沿革>
           槻川流域に勢力をもった上田氏の城とみられているが、確証はない。松山城を築いて
          移ったとされる上田新左衛門尉友直の、それ以前の居城ともいわれる。『日本城郭大系』
          には友直を指すとみられる「上田左衛門大夫」を伝承上の築城者としている。この場合、
          安戸城は応永六年(1399)までには存在していたことになる。一方、安戸宿の天神社の
          社伝によれば、安戸城主上田左衛門大夫安吉が天文五年(1536)に同社を勧請したと
          される。もし左衛門大夫安吉が築いたのであれば、築城年は15世紀末から16世紀前半
          と大幅に繰り下がることになる。
           その他の城の沿革については定かでない。


       <手記>
           安戸城は、腰越城から安戸宿を挟んだ上流側に位置しています。両城の間に町村境
          があることから、安戸城は東秩父村で唯一の山城とされています。山城に限定しなけれ
          ば、村内にはすぐ東に山田館、西に大河原氏館があります。
           城山へは、南西麓の城山保育園脇から登山道が伸びています。坂を登りきった園の
          ゲート脇には、乗用車2台分程度の駐車スペースもあります。登山道は1本道でさほど
          急でもないので、難なく山頂までたどり着けます。
           城は主郭の周囲に切岸状の土塁と帯曲輪を巡らしただけの、単純で古典的な構造を
          しています。帯曲輪の外側はすでに自然地形で、ほとんど単郭の城といっても過言では
          ないでしょう。また、南北に1条ずつごく浅い堀切が設けられています。現地説明板では
          北側のものを竪堀としていますが、当時はおそらく堀切だったものと思われます。さらに
          現地説明板の縄張り図には、北へ続く尾根筋にもう1条堀切があるように描かれていま
          したが、こちらはどこのことか分かりませんでした。
           安戸城については、隣の腰越城に比べて造りがあまりにもお粗末なのが特徴です。
          一般に上田氏が安戸城主、上田氏の家老を務めた山田氏が腰越城主とされています
          が、もし現状の遺構どおりの城に両者が居城し続けたとすると、主従の力関係が完全に
          逆転しています。少なくとも腰越城が現在の規模に整備されたときまでには、上田氏は
          安戸城主ではなくなっていたものと推察されます。
           さらにいえば、安戸城の縄張りはきわめて原始的であり、使用期間は南北朝時代から
          せいぜい戦国時代中期までの間ではないかと思われます。上田氏が松山城へ移って
          からは、ほとんど顧みられていなかったのではないかというのが、個人的な感想です。
           浄蓮寺となっている大河原氏館の詰城とする見方も強いようですが、私はこれにも
          懐疑的です。安戸が攻められるとすれば、第一に考えられる侵攻ルートは東方であり、
          そうすると安戸城は浄蓮寺の背後ではなく前方に位置することになります。安戸城を
          上田氏の初期の居城とするなら、その居館は城山の真下か東の安戸宿付近にあった
          とみるのが自然と思われます。

           
 腰越城跡主郭から安戸城跡を望む。
浄蓮寺から城山を望む。 
 主郭の説明板。
主郭のようす。 
 主郭の切岸状土塁と帯曲輪。
主郭の北の堀切(竪堀)跡。 
 主郭南の堀切跡。


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