大胡城(おおご) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大胡氏 | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀、土橋、虎口 | |
交通 : 上毛電鉄大胡駅徒歩10分 | |
<沿革> 藤原秀郷の子孫足利成行の子重俊が大胡太郎を名乗り、大胡に住した。現在の大胡城址に 平安末期の武士が城館を構えていたとは考えにくく、重俊の居館は周辺の山麓にあったものと 考えられる。城址西麓の養林寺には二重の堀跡が残り、ここを重俊の居館跡とみる説も有力で ある。しかし、二重堀は明らかに後世のものであり、重俊の館跡とする確証とはいえない。 「大胡太郎」は、『平家物語』において治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に呼応した関東武士 の1人として登場している。『吾妻鏡』の建久三年(1190)の記事にも大胡太郎の名がみられ、 これが確実な史料に現れる大胡氏の初出とされる。 観応元/正平五年(1350)、足利尊氏方の大嶋義政が大胡氏、山上氏らとともに、笠懸野で 足利直義方の桃井直常・長尾景忠らと戦い、敗れている。この後、大胡氏の消息は一時絶え、 南北朝期を経て没落したものと推測されている。 大胡城は金山城主横瀬国繁に攻め落とされたとする伝承があり、これが正しければ、遅くとも 15世紀中ごろまでには、現在の城域に城が築かれていたものと考えられる。国繁は、家臣増田 氏(益田氏とも)を城代に派遣したとされる。増田氏は大胡氏と同じ秀郷流を称しており、あるい は大胡氏一族とも推測されるが、詳細は不明である。益田(増田)家に伝わる系図には、益田 行綱が大胡城を築き、その孫の修茂は享徳年間(1452〜54)に城主を務め、修茂の子茂政の 代に、那波氏に敗れて新田へ落ちたとされる。他方、文明元年(1469)に川越城で開催された 連歌会に、大胡修茂なる人物が参加していたとされる。大胡城主増田(益田)修茂が、大胡氏 を継いだと考えることに一応の整合性は担保できるが、確証はない。 天文年間(1532〜54)に、重俊から数えて10代目と称する大胡宮内少輔重行が、後北条氏を 頼って武蔵国豊島郡へ移った。重行の子勝行は牛込城を築き、牛込氏を称した。ただし、重行 の出自について、大胡氏の系譜上のどこに位置する人物であるかは不明である。 この頃の大胡城や大胡氏についてはかなりの混乱がみられる。重行の大胡落ちは厩橋城主 厩橋長野氏の圧迫によるものとされ、その後長野氏の一族が大胡氏を称したとも伝わる。他方、 大胡氏一族とされる上泉城主上泉秀綱が、大胡氏を称して大胡城に在ったとされる。秀綱は、 後に剣聖と謳われた伊勢守信綱のことであるが、その前半生についてははほとんど不明である。 おそらく、『言継卿記』などに「大胡武蔵守」として登場することからの推測と思われるが、「大胡」 が単に姓を表したものであるとすれば、必ずしも秀綱が大胡城主であったとはいえない。また、 永禄三年(1560)に長尾景虎(上杉謙信)が関東へ進出した際の『関東幕注文』には、秀郷流 大胡氏の子孫とみられる大胡氏の名が記載されているが、大胡城主であったか否かは定かで ない。 永禄九年(1566)、金山城主由良成繁(横瀬氏から改姓)が上杉から北条へ寝返ったため、 謙信は由良氏方の大胡城を攻め落とした。このときの城代は増田繁政とされる。謙信は、城に 北条高広を入れたが、高広も翌十年(1567)に北条氏に通じた。大胡城で戦闘があったのかは 不明だが、高広はまもなく謙信に厩橋城を逐われている。同十二年(1569)に越相同盟が成立 すると、高広は上杉家への帰参を許され、厩橋城主に復帰したが、天正二年(1574)に家督を 嫡子景広に譲り、大胡城へ隠居した。他方で、この頃から上杉家臣として大胡常陸介高繁の 名が現れる。高繁は毛利姓を称したことから、高広の一族と考えられているが(越後北条氏は 大江姓毛利氏流)、大胡城との関連は不明である。同七年(1579)の御館の乱に巻き込まれて 景広が横死すると、高広は武田勝頼を頼った。このときに高繁が大胡城主となったともいわれる が、確証はない。 天正十年(1582)に武田氏が滅ぶと、高広は代わって進出してきた織田家重臣滝川一益に 従い、同年に本能寺の変が起こると上杉氏に属したが、北条氏直によって上野国を逐われた。 大胡城は由良氏に預けられ、由良家臣増田伊勢守が城代として派遣されたとされる。しかし、 翌十一年(1583)に由良氏の城である金山城と館林城の借り受けを巡り後北条氏との間に騒動 が起き、大胡城は北条氏の直轄とされ、山上郷右衛門顕将が城将となった。 天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅び、徳川家康が関東に入封すると、大胡城 には牧野康成が2万石で入城した。元和二年(1616)、康成の子忠成は越後長峰5万石へ加増 転封となった。ただし、大胡は牧野家領として残っていたようで、一説には忠成は長峰城と城下 の建設を大胡にとどまって指揮していたといわれる。しかし、同四年(1618)に長峰城の完成を 待たずに長岡へ加増転封となり、大胡は前橋藩領となった。藩主酒井氏は城代を派遣したが、 主城域の建造物は撤去されたものとみられている。寛延二年(1749)、酒井忠恭が姫路へ転封 となるに至って、大胡城は完全に廃城となった。 <手記> 大胡城は、東に荒砥川が流れる舌状の台地上に位置しています。西側にも小沢が流れ、城内 を用水堀として貫通していますが、これはおそらく牧野氏時代の改修によるものと思われます。 東麓から曲輪下をトンネルで突っ切って二の丸へ登る車道があり、トンネル入り口脇に石碑が 建てられています。二の丸が駐車スペースとなっており、本丸堀の前にイラスト入りの説明板が 設置されています。この本丸堀と本丸土塁が何といっても圧巻です。現在の大胡城の遺構は、 ほとんどが牧野氏時代の半近世的なものであるとはいえ、土の城の遺構が大きく残っていると、 思わず感動してしまいます。 本丸は東西2段に分かれており、段差部分の一部が石積みとなっているのは、当時の遺構で あると思います。この本丸は、丘陵の頂部というよりは、掻き上げて周辺より少し高くしたという 感じで、牧野氏以前からこのような縄張りであったかは少々留保が必要なように思います。 本丸の北には、とても深い空堀を隔てて北城と呼ばれる曲輪があります。その北には、さらに もう1本深い堀を隔てて近戸神社があります。近戸神社は、かつては近戸曲輪と呼ばれる曲輪 で、北端に土橋と虎口を備えていることから城内北端とみられています。『大胡町史』などでは、 この近戸曲輪こそが中世大胡城の主郭であると考えているようですが、私はむしろ、周辺地形 を鑑みるに、近戸曲輪の南の北城が中世大胡城の北端ではないかと睨んでいます。その場合、 牧野氏ないし後北条氏時代に、かなり大胆な縄張りの改変があったのではないかと推測して います。 二の丸の南東と南には、貴重な桝形虎口遺構が2ヶ所残っています。南東の方が二の丸門、 南のものが水の手門跡だそうです。二の丸門の方には石垣が残っています。眼下にはくだんの 水路が屈曲して流れ、ここが城内でもっとも複雑かつ堅固なポイントとなっています。 |
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トンネル入り口の城址碑。 | |
本丸土塁と空堀。 | |
本丸虎口か。 旧縄張り図をみると後世の造作の可能性あり。 |
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本丸北側の空堀。 | |
2段造りの本丸の段差部。 | |
本丸のようす。 | |
二の丸門跡。 | |
水の手門跡。 |