安田城(やすだ) | |
別称 : 安田陣屋 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 安田氏 | |
遺構 : 堀、土塁、曲輪 | |
交通 : JR羽越本線水原駅からバスに乗り、 「保田横町」下車徒歩5分 |
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<沿革> 平国香の曾孫秋田城介平繁成の後裔とされる伊豆大見氏の大見家秀は、源頼朝 の挙兵に従った功により、越後国白川荘の地頭職を得た。家秀の子ないし孫の時実 は、安田郷に拠って安田氏を称した。安田氏が当初から安田城の位置に館を営んで いたのかは定かでない。 永禄四年(1561)の第四次川中島の戦いで、安田長秀は色部勝長や中条藤資ら とともに上杉政虎(謙信)から血染めの感状を賜った。長秀は天正十年(1582)ごろ に死去し、跡を河田元親の子堅親が継いだ(異説あり)。 慶長三年(1598)に上杉家が転封となると、安田氏もこれに従って安田城を離れた。 安田は、本庄(村上)9万石を与えられた村上頼勝の所領となり、安田城には家臣の 吉竹右近が城番として派遣された。 村上家は江戸時代の元和四年(1618)に、2代忠勝が改易となった。村上藩には、 長岡藩主堀直寄が2万石加増のうえ10万石で入部した。その後、一国一城令により 安田城は同八年(1622)に破城された。 寛永十六年(1639)、直寄の次男直時は父の死に伴って3万石を分知され、安田藩 を興して安田城跡に陣屋が営んだ。しかし、直時の子直吉は、同二十一年(1644)に 陣屋を村松に移したため、安田陣屋は解体された。 <手記> 安田城跡は中心部が交通公園となっているものの、本丸の堀や土塁を中心に遺構 が比較的しっかりと残っています。本丸の北東隅を削り取るように、用水路が流れて いますが、これはおそらく後世に開削されたもので、水路の向こうにも輪郭式に城域 が広がっていたものと推測されます。 西や北は野球場や体育館となっていて、旧状をうかがうのは困難ですが、南東方面 には二の丸の堀と思しき低湿地の地形が見られます。近隣にある中世以来の低地の 城館である水原城や新発田城などは、江戸時代の改変を受けているため、古い形式 を残す城跡として貴重な存在であるといえるでしょう。 |
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本丸の堀。 | |
同上。 | |
交通公園になっている本丸。 | |
本丸の土塁。 | |
同上。 | |
二の丸の堀跡か。 | |
同上。 |