水原城(すいばら) | |
別称 : 水原城館、水原代官所 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 水原氏 | |
遺構 : 堀跡か | |
交通 : JR羽越本線水原駅徒歩20分 | |
<沿革> 平国香の曾孫秋田城介平繁成の後裔とされる伊豆大見氏の大見家秀は、源頼朝 の挙兵に従った功により、越後国白川荘の地頭職を得た。家秀の孫の1人である 家綱は、水原郷に拠って水原氏を称した。水原氏が当初から水原城の位置に館を 営んでいたのかは定かでない。 天正九年(1581)、御館の乱での恩賞に不満をもっていた新発田城の新発田重家 が反乱を起こすと、水原城は対新発田氏の最前線となった。天正十一年(1583)に 上杉景勝が自ら兵を率いて新発田城を攻めたものの、放生橋の戦いで重家に急襲 され大敗した。従軍していた水原満家は討ち死にし、水原城も重家に奪われた。 翌天正十二年(1584)、景勝は水原城を一旦は奪還したものの、それ以上の進軍 が困難となったため、まもなく城を放棄して撤退した。しかし、後ろ盾であった蘆名 盛隆や伊達輝宗が相次いで死亡し、補給拠点であった新潟城や沼垂城が計略に より奪取されると、重家は次第に追い詰められていった。乱は、同十五年(1587)に 新発田城の陥落と重家の敗死をもって終結した。その前年の同十四年(1586)に、 浦佐城主大関親信の子の常陸介親憲が景勝の命により水原氏の名跡を継承して いることから、水原城もこの年までに上杉氏の手に帰したものと推測される。 慶長三年(1598)に上杉家が会津へ転封となると、親憲も猪苗代城代に任じられ 移っていった。これにより、水原城は廃城となったものと推測される。 江戸時代中期の延享三年(1746)、幕府は水原城跡に天領支配の水原代官所を 建造した。支配域は6万〜10万石に及んだとされる。初代代官には内藤十右衛門が 就任し、以後22代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 水原城跡に設置された水原代官所は、平成七年(1995)に建物が復元され観光 スポットとなっています。お白洲や評定のようすなどが再現されているらしいのです が、時間が足りず中は見ずじまいでした。 中世城館の遺構はありませんが、代官所の門前には形ばかりの堀があります。 あるいは、戦国時代の堀跡を踏襲したものかもしれません。 |
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水原代官所正面。 | |
代官所の堀。 |