霧山城(きりやま)
 別称  : 多気城、北畠氏館、北畠氏詰城、霧山御所
 分類  : 山城
 築城者: 北畠顕能
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、庭園
 交通  : JR名松線家城駅よりバス
       「北畠神社前」バス停下車


       <沿革>
           興国三/康永元年(1342)、南朝方の北畠顕能は伊勢平野の拠点田丸城を北朝方に攻め
          落とされ、多気に退いた。霧山城はこの時に築かれたと考えられているが、確証はない。多気
          は南朝が置かれた吉野と伊勢大湊を結ぶ伊勢本街道の中途にあり、以後南北朝時代を通じ
          て北畠氏の本拠地として重要視された。
           応永二十二年(1415)、明徳の和約における両統迭立が遵守されなかったことに不満を抱い
          た北畠満雅(顕能の孫)が、阿坂城で挙兵した。このとき、南朝最後の天皇後亀山天皇の孫
          小倉宮が大義名分として擁立され、霧山城に行在したとされる。同三十五年(1428)、満雅は
          岩田川の戦いで幕府軍に敗れて討ち死にし、跡を継いだ子の教具(幼少のため、実務は満雅
          の弟顕雅が代行)は、幕府と和睦した。これにより、小倉宮は京へ送り返された。
           永禄年間(1558〜70)、時の当主北畠具教は、居城を霧山城から大河内城へ移した。霧山
          城には、北畠政成(具教の父晴具の又従兄弟)が城代として配置された。同十二年(1569)、
          具教は伊勢に侵攻した織田信長に降伏し、三瀬谷へ移った。天正四年(1576)、北畠一族は
          信長三男信意(後の信雄)によって謀殺された(三瀬の変)。粛清を逃れた北畠旧臣たちは、
          霧山城へ籠って抵抗を試みたが、まもなく神戸信孝・羽柴秀吉・関盛信らの大軍に囲まれた。
          防戦むなしく城は落ち、政成をはじめ主だった将は自害して果てた。城と城下は焼き払われ、
          霧山城はそのまま廃城となった。


       <手記>
           霧山城のある多気は、八手俣川の川筋以外は四方を山々に囲まれた盆地で、土地自体が
          要害であるといえます。事実、多気盆地へ入る7つの経路はすべて峠越えの山道で、関所や
          砦で厳重に封鎖されていたといわれています。そのような小盆地ですが、最盛期には1万人
          を超える人口を擁していたというから驚きです。
           とはいえ、地図を広げれば分かるとおり伊勢国のなかでもかなり奥まったところに位置して
          おり、吉野と大湊・山田との連絡という以上に交通上の利点はなく、南北朝時代が終焉した
          後も信長の伊勢侵攻間近までここを居城とし続けたというのは、戦国大名としての北畠氏の
          限界を早々に露呈しているようにも思われます。
           霧山城は、大きく分けて山頂の北曲輪群とその南の南曲輪群、山麓の北畠氏館跡とその
          裏手の詰城跡の4カ所から成っており、これらを総じて「多気北畠氏城館跡」として国の史跡
          に指定されています。
           山麓居館跡は、現在北畠神社となっています。南北両脇の沢と八手俣川に囲まれた範囲
          全体が館の敷地だったようで、現在は県道が中央を貫通している格好となっています。館跡
          の見どころは何といっても庭園で、池泉と枯山水の石組みが完存しています。享禄元年(15
          18)ごろに管領細川高国によって造営されたとする説があるそうですが、発掘調査からは、
          伝承と矛盾しない結果が出たそうです。ただし、船岡山合戦前後の高国に伊勢へ下向する
          余裕があったのかは疑問です。ちなみに、将軍足利義晴が朽木稙綱の庇護の下で仮御所
          とした岩神館の庭園(旧秀隣寺庭園)も、高国の作庭と伝えられています。こちらの庭園の
          素晴らしいのは、池泉に今も絶妙な厚さで張っている水の透明感です。これまで城めぐりを
          続けるなかで、室町時代の居館庭園跡はそこそこ目にしてきましたが、水面に景色が反射
          するほど綺麗な水を今も湛えている庭園は、早々ありません。秋には夜のライトアップも行わ
          れるといことで、さぞや美しいことだろうと思います。
           庭園の他には、境内地表には居館址を思わせるようなものはないのですが、発掘調査に
          よって、館内を2段に分ける石垣と階段状の入口跡が見つかっています。
           神社南脇が登城口で、ここから山道を登るとまもなく詰城跡に到着します。詰城は、主郭
          とその下の腰曲輪の2段から成っています。腰曲輪の北辺には土塁が残っています。また、
          主郭の背後は2条の尾根筋で断ち切られています。ここだけでも戦国の小城郭といった趣で、
          南北朝時代の終結後に拡張された部分と考えられます。
           ここからもうしばらく登ると、詰城の次の尾根先に擂鉢状のやや広い空間が現れます。西
          側だけが明確に土塁となっており、人工のスペースであることはほぼ間違いないのですが、
          他のエリアと比べて明らかに雰囲気が異なっています。この曲輪と呼んでよいのかどうかも
          定かでない浮いた空間が、いったい何の目的でつくられたものなのかちょっと謎です。
           さらに登ると、南曲輪群に到達します。地元では鐘撞堂跡と呼ばれるこの峰は、「曲輪群」
          というものの、実際にはほぼ単郭です。鐘撞堂跡からは北・東・南の三方に尾根が伸びて
          いますが、北は主郭のある北曲輪群に通じ、南は堀切で断絶されています。登山道が通る
          東の尾根には2段の腰曲輪が続いていますが、そのうち下の曲輪は土塁で囲まれています。
          この曲輪は登山道の下に位置しているので、注意が必要です。
           北曲輪群は、主郭とその前後(東西)の腰曲輪から成っています。腰曲輪のうち、西のもの
          を地元では米倉跡、東のものを矢倉跡と呼んでいるようです。主郭と米倉跡は段続きですが、
          主郭と矢倉跡の間は堀切で断絶されています。さらに矢倉跡の先端側にも堀切が穿たれて
          います。矢倉跡から尾根筋に下ると、多気七口の一つ比津峠に至ります。
           北曲輪群からの眺望は絶佳といえば絶佳なのですが、どっちを向いても山並みしか見えず、
          改めて多気の奥座敷ぶりを実感します。また、山頂一帯はとんでもなく風が強いです。地元
          の方のお話では、たまたまではなくたいてい強風が吹き上ってくるのだそうで、帽子を着用
          されている方はお気を付け下さい。
           霧山城を訪れる際の難点は、繰り返しになりますが戦国大名の居城とは思えないほどの
          山深さです。どの方面から多気入りを目指しても、すれ違いにブレーキを踏む必要のある道
          を通らなくてはなりません。大きい車で来られる方は、やはり要注意です。


 霧山城址遠景。
主郭の城址碑。 
 主郭のようす。
米倉跡。 
 矢倉跡。
主郭と矢倉跡の間の堀切跡。 
 矢倉跡尾根先側の堀切。
鐘撞堂跡。 
 鐘撞堂跡南側尾根筋の堀切。
鐘撞堂跡(南曲輪群)から北曲輪群を望む。 
 南曲輪群東側尾根下の腰曲輪と土塁。
南曲輪群と詰城跡の間の擂鉢状人工地形。 
曲輪跡か。 
 詰城跡背後尾根筋の2条堀切を形成する土盛り。
詰城跡主郭のようす。 
 詰城跡主郭背後の土塁。
詰城跡腰曲輪の土塁。 
 北畠氏館跡庭園。
同上。 
 北畠神社境内の石垣発掘現場。
 画面中央手前から奥へと石列が発見されました。


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