大鐘屋敷(おおがね)
 別称  : 大鐘家住宅
 分類  : 屋敷
 築城者: 大鐘家
 遺構  : 屋敷、長屋門、石垣、土塁、堀、
 交通  : JR東海道本線藤枝駅からバスに乗り、
      「片浜」下車徒歩5分


       <沿革>
           尾張国高針出身の山田蔵鱗は、同郷の織田家重臣柴田勝家の家臣として越前での戦で
          功を挙げた。このとき、陣羽織や幟に釣り鐘の紋を付けていたため、織田信長から大鐘姓を
          与えられ大鐘藤八郎貞家と名乗った。
           貞家は勝家の養子で長浜城主の勝豊の家老となったが、賤ヶ岳の戦いに臨んで城ごと
          羽柴秀吉に寝返った。貞家も勝豊に従ったが、まもなく勝豊は病没し、同十三年(1585)に
          長浜城主となった山内一豊に仕えた。同十八年(1590)に一豊が掛川城主となると、貞家
          は大礒村への移住を命じられ、現在の地に屋敷を設けたとみられる。
           その後、経緯は不明だが徳川家の直臣となったようで、江戸時代前期の江戸の地図に
          「大鐘いずも」の屋敷の存在が記されているとされる。大鐘家は、江戸時代中期までは旗本
          であったが、元禄年間(1688〜1704)には大庄屋となり、近隣一帯のまとめ役として続いた。


       <手記>
           大鐘家には母屋や長屋門、納屋などの江戸時代の建物が残り、重要文化財にも指定され
          ています。また、お庭はアジサイや酔芙蓉の時期に賑わい、「百葉茶」を製造・販売するなど
          観光スポットとしても充実しています。
           庄屋の屋敷ということで陣屋などとも異なりますが、立派な長屋門には武家の風格が感じ
          られます。この日は、大鐘家の女将さん(お嫁さん)に運よくお話をうかがうことができました。
          曰く、屋敷の西辺には長い土塁があるのですが、上は天井川になっていて、かつて大雨で
          溢れて屋敷内が洪水状態になったことがあるとか。また、屋敷の石垣は相良城が廃された
          ときに転用されたものだとか、市はともかく県が保存費を全然出してくれないので、納屋や
          長屋門脇の塀などはかなり危険な状態にあるなど、いろいろと教えてもらえました。
           母屋は今も現当主が住居として使用しているため、写真は控えています。また、門前には
          やはり大鐘家の親類という方がそば店を営んでいて、ちょうどお昼だったので立ち寄ると、
          今度は先日相良で藤井聡太さんのタイトル戦が予定されていたものの、早々に勝ち切って
          しまったので対局自体がなくなり、勝負メシ候補を用意していたのに残念だったというお話を
          うかがいました。どれを選ぶかだけでなく勝ち具合でも地元経済に影響を及ぼしてしまうとは
          因果な商売だなぁと感じつつ、歴史観光を楽しんだ次第です。

           
 西辺の土塁。
同上。 
 土塁上の天井川跡。
長屋門。 
 相良城から転用したとされる石垣。
同じく石垣と東辺の堀を兼ねた用水川。 
 屋敷裏手からの眺望。


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