相良城(さがら)
 別称  : 相良陣屋、相良御殿
 分類  : 平城
 築城者: 武田勝頼
 遺構  : 石垣、土塁
 交通  : JR東海道本線藤枝駅からバスに乗り、
      「相良庁舎入口」下車すぐ


       <沿革>
           天正四年(1576)、徳川家康と対峙する武田勝頼によって、兵站拠点として築かれたと
          される。『高天神記』には高坂弾正(春日虎綱)が縄張りを担当したとあるが、海津城代
          であった弾正が遠州灘沿岸の経略に直接関与していたとは考えにくく、実際に駿遠の
          多くの城で縄張りを行ったとされる馬場信春と取り違えたのではないかとも考えられる。
          武田氏が滅亡し、徳川氏が5か国を領していた天正十四年(1586)には、家康が鷹狩の
          際の御殿として取り立てた。
           江戸時代の宝永七年(1710)、本多忠晴が三河国伊保藩より1万5千石で相良に入部
          し、御殿跡に陣屋を設けた。3代忠如が延享三年(1746)に陸奥国泉藩へ移封となると、
          入れ替わりで板倉勝清が相良藩主となったが、勝清も翌年に安中藩へ移された。
           勝清の後は本多忠央が三河国挙母藩(衣藩)から1万石で入封したが、宝暦八年(17
          58)に縁戚である郡上藩金森家の改易に連座して所領を没収された。代わって相良藩
          1万石を領したのが、将軍徳川家治の側用人として名高い田沼意次である。明和四年
          (1767)に2万石へ加増された意次は、城主格を与えられて相良陣屋の城への改修に
          着手した。完成まで11年もの歳月を要し、この間の安永元年(1772)に、意次は老中に
          登り詰め、石高も5万7千石に至っている。相良城も意次の石高と権勢に見合った規模
          を誇っていたとみられ、特別に三重の天守を上げることを許されていたとされる。
           しかし、天明四年(1784)に意次の嫡子意知が旗本の佐野政言に暗殺されると、その
          権勢にも陰りが見え始めた。同六(1786)に家治が没すると反田沼派の巻き返しに遭い、
          同年中に老中を辞したうえ2万石を収公された。
           翌天明七年(1787)には完全に失脚し、さらに2万7千石を没収され、意知の子意明に
          陸奥下村藩1万石のみが宛がわれた。相良城は、新たに老中に就任した白河藩主松平
          定信の命によって徹底的に破壊された。
           文政六年(1823)、意次の四男意正が、意次派であった水野忠友の養子の老中水野
          忠成に推挙されて相良藩1万石に復帰した。ただし城は復興されず、旧城内に相良陣屋
          を設けて政庁とした。意正の孫意尊は、明治維新後に上総小久保藩へ移封を命じられ、
          相良陣屋も廃されることになった。


       <手記>
           田沼意次の富と権勢の象徴として知られる相良城ですが、その原点は武田勝頼にあり、
          意次以前にも陣屋として長らく使われていました。萩間川河口の蛇行部外側の沖積地を
          利用していると思われ、本丸は相良中学校および牧之原市役所相良庁舎などに、二の丸
          は相良小学校に、そして三の丸は相良高校となっています。
           また、本丸跡に櫓風の牧之原市史料館が建ち、その脇には立派な城址碑と意次銅像が
          あります。資料館の入場券は御城印を兼ねているようで、図らずも人生で初めて御城印を
          手にしました笑
           定信に徹底的に破壊されたということもあり、遺構はほとんどありません。小学校校庭に
          土塁が残存しているほかは、湊橋南詰の仙台河岸の石垣が残っています。仙台河岸は、
          意次が相良城を大改修した際に、仙台藩主伊達家が石垣用材を寄進して建造されたこと
          にちなむ名称だそうです。国内第3位の表高をもつ伊達藩でも、当時飛ぶ鳥を落とす勢い
          であった意次にこうして媚びを売らなければならなかったと考えると、時代の面白さを垣間
          見た思いがします。

           
 相良城址碑。
田沼意次銅像。 
 牧之原市資料館。
資料館前の本丸跡碑。 
 二の丸の土塁。
同上。 
 仙台河岸の石垣。
同上。 


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