大出古城(おおいでこ) | |
別称 : 沢古城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 大出氏か | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : JR飯田線沢駅徒歩15分 | |
<沿革> 南の大出城に対する古城とみられるが、詳細は不明である。『伊那の古城』によれば、 建保年間(1213~18)に飯田の坂西長門守の二男兵庫頭が大出に移り住んで大出氏を 称したが、建武年間(1334~36)に木曽家村に攻め滅ぼされたとされる。しかし、坂西氏が 飯田に入ったのがそもそも南北朝時代といわれており、この初期大出氏の存否について は定かでない。 『諏訪御符礼之古書』によると、15世紀後半に藤沢出羽守有兼・有世なる人物が大出に いたことが記されている。また『伊那温知集』には、天文年間(1532~55)ごろに藤沢織部 が大出城主であったとある。同十三年(1544)に福与城主藤沢頼親が武田晴信(信玄)に 攻められた際には、頼親配下の将として「大出」の名がみられる。したがって、15世紀後半 までには藤沢氏の一族が大出城に拠り、後に大出氏を称したものと推測される。同戦いで 頼親が武田氏に屈した後の大出氏については定かでない。 <手記> 河岸の突端を利用した城砦である大出城に対し、大出古城は開発領主の居館などによく みられる崖端の城となっています。中心部とされるあたりは宅地や畑地となっていて、城跡 を示すようなものはありません。その南北には沢谷戸が切れ込んだ地形があり、堀の跡と みるなら現状で唯一の遺構と思われます。『伊那の古城』によれば、かつては東麓の高橋 神社跡付近にも、大手とされる堀跡があったそうです。さらに、主郭北側の沢谷戸を挟んだ 水田地の一角には、「神主の墓地」という標柱の建つ墓碑のようなものがあるのですが、 いったい何なのかは分かりませんでした。 前述のとおり、大出城が防衛を主眼としているように見えるのに対し、大出古城は居住や 経営向けの館城と考えられます。役割分担ができているなら、両城が並立していたとしても おかしくはないでしょうが、表面観察からは憶測以上のことはできません。あるいは、初期 大出氏が実在したとすれば、大出古城の同氏が滅んだ後しばらく時を空けて、藤沢氏庶流 の大出氏が新しく大出城を築いたとも考えられます。 |
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北側の沢谷戸。 | |
南側の沢谷戸。 | |
中心部の現況。 | |
神主の墓地。 |