太田館(おおた)
 別称  : 太田道真館、自得軒
 分類  : 平城
 築城者: 太田道真
 遺構  : なし
 交通  : 東武東上線/JR八高線越生駅から
      バスに乗り、「梅園小学校入口」下車
      徒歩5分


       <沿革>
           太田道灌の父太田道真(資清)の館「自得軒」の跡とされる。道真が扇谷上杉家の
          家宰として越生に所領を得て建造したものとみられるが、いつごろのことかは定かで
          ない。道灌(資長)について、その出生地や有名な山吹伝説の地を越生とする伝承
          もあるが、確証はない。『太田道灌状』によれば、文明十二年(1480)正月二十日に
          長尾景春が越生に攻め寄せ、道真がこれを撃退したとあり、このころまでには築かれ
          ていたものと推測される。
           文明十八年(1486)六月、道灌と万里集九が越生の道真を訪ね、『梅花無尽蔵』
          にはそのときの詩が収められている。しかし翌七月二十六日、道灌は相模国糟屋館
          で主君上杉定正に謀殺された。道真は道灌の菩提を弔うため、建康寺を創建したと
          される。その道真も、長享二年(1488)ないし明応元年(1492)に死去した。太田氏
          は一時没落し、後に江戸城主岩槻城主として復活したが、越生の館や所領は
          道真の死没をもって廃されたものと思われる。


       <手記>
           越生梅林から越辺川を少し遡ったところに建康寺があり、ここが太田道真の館跡
          とされています。越生梅林は南北朝時代に端を発するとされているので、道真らも
          早春には梅を楽しんでいたのでしょう。
           ただ、建康寺が館跡であるという確証はありません。川をさらに遡ると、太田父子
          の墓のある龍穏寺があり、景春に備えて築かれたとされる山芝庵がこのあたりに
          あったとされています。自得軒も龍穏寺付近にあったとする見方もあるようですが、
          いかんせん判断材料がありません。
           建康寺には道真の隠棲地として石碑や説明板がありますが、館跡に結びつくよう
          なものも見当たりませんん。堂宇の背後になにやら天守台のような立派な石垣が
          組まれていますが、その上は社になっていて、館との関係はまずないでしょう。
           寺の前で越辺川を渡る橋は「道灌橋」と名付けれていて、その対岸には「馬場」
          という小字があったそうです。また、門前の道を少し北上すると「才車」という水車
          の跡があり、「才」を「塞(砦)」の転訛とする説があるそうです。とはいえ、才車は
          江戸時代に作られたもので、やや無理のある連想かなという気はします。
           個人的には、戦国の世とはいえさすがに龍穏寺は山奥に過ぎるように思われ、
          少なくとも平時の居館が建康寺周辺にあったと見るべきと考えています。

           
 建康寺
境内の石碑。 
 境内背後の石垣上からの景色。
道灌橋。 
 道灌橋から見た越辺川。
才車の堰跡。 


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