越畑城(おっぱた) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 荘(庄)秀俊か | |
遺構 : 段築 | |
交通 : 東武東上線・JR八高線小川町駅よりバス。 「パークヒル」バス停下車徒歩25分 |
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<沿革> 現地の石碑銘文によれば、永享十年(1438)の永享の乱の戦功により当地を与え られた荘(庄)山城守秀俊によって築かれたとされる。秀俊は、武蔵七党の1つ児玉 党筆頭庄家長の5代の裔四郎泰家の子六郎弘長の3代子孫にあたるとある。ただし、 泰家以下弘長、秀俊の名は史料にみられず、実在に疑問がもたれる。銘文によれば、 越畑城主荘氏は、秀俊の子左近将監秀政、さらに秀光・弘忠・行秀と続いたとある。 北条氏滅亡後は、荘氏は足立郡新曽(現埼玉県戸田市)などに移り住んだとされ、 当石碑はその子孫を称する人々によって建造されたものである。 他方で、『新編武蔵国風土記稿』には、「庄主水と云し人の居蹟といえど」とある。 庄主水については、越畑城南東の杉山城主としても挙がっている人物で、寛永年間 (1624〜45)に描かれたとみられる『天正庚寅松山合戦図』にある、杉山主水弘秀と 同一人物とみられているが、確証はなく、詳細は不明である。 <手記> 越畑城は、市野川河岸の丘陵地帯中途の峰上にあったとされる城です。同じ丘陵 の南端付近には杉山城址があります。現在城跡の中心を関越自動車道が貫通して おり、道路の建設に先立って発掘調査が行われています。それによると、越畑城は バーベル状に並んだ2つの小山にそれぞれ本郭と二の郭を配し、その間の鞍部には 「つなぎの平場」が、そしてそこから北東に突き出た舌状の尾根に三の郭を設けると いう構造であったとされています。このうち、二の郭の西半分を除くほぼ全域が破壊 されています。 二の郭の残された部分には、現在愛宕神社の小社が祀られています。ここに行く には、高速道の東から歩道橋「愛宕橋」を渡らなければなりません。神社の南東に、 明確に人工のものと認められる段築があります。おそらく、貴重な貴重な越畑城の 現存遺構と思われます。『日本城郭大系』にある、二の郭は円形で1m前後の段築 があるだけという記述とも合致します。 これに対して、北にある本郭は喰い違い虎口や折れをもつ土塁に囲まれていたと されています。ギリギリ本郭の西端が道路の外側に位置し、虎口も折れも土塁西辺 にあったとされていることから、もしかしたら、根気よく探せばその痕跡が見つかった のかもしれません。ただ、本郭周辺は藪が深く、踏査は困難です。 愛宕橋の東詰から、高速道にもっとも近く沿った小道を北へ進むと、件の城址碑が あります。 越畑城の謎は、南北に続く丘陵には城に適した土地はいくつもあるのに、それらと 比べて特段要害性に優れているというわけでもないこの地が、なぜ選ばれたのかと いう点です。地図上から考え得る理由は、杉山城との関連です。すなわち、杉山城 と鉢形城の間の繋ぎの城たる高見城や高谷砦を、杉山城から直接視認することは できません。越畑城からはそれが可能であるため、伝えの中継点として築かれたの ではないかと考えられます。とすれば、発掘調査の結果に見る造作が中途半端なの も、納得がいきます。 |
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越畑城址碑。 | |
二の郭跡の愛宕神社境内。 |
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二の郭の段築。 | |
石碑前より二の郭方面を望む。 |