杉山城(すぎやま) | |
別称 : 初雁城、椙山之陣 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 山内上杉氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋、井戸 | |
交通 :東武東上線武蔵嵐山駅徒歩30分 | |
<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』には、「金子十郎家忠あるいは庄主水」が築いたと伝えられる とある。しかし、金子家忠は平安末期から鎌倉初期の武士で、その居館はかなり離れた 入間郡金子にあることや、選地や構造が純粋に戦国時代的であるため、金子氏築城説 は疑わしいといわざるを得ない。また庄主水については、寛永年間(1624〜45)に描かれ たとみられる『天正庚寅松山合戦図』にある杉山主水弘秀と同一人物とみられているが、 確証はなく、詳細は不明である。 一般的には、数次にわたる発掘調査の結果から、15世紀後半に山内上杉氏によって 築かれたとする見方が有力である。ちょうど長享元年(1487)に、山内上杉氏と扇谷上杉 氏の間で長享の乱が勃発しており、前者が後者に対する前線の備えとして築いたとする 推測は、十分に成り立つと考えられる。さらに踏み込んで、山内上杉氏家宰長尾顕忠の 居城であったとする説もあるが、確証は得られていない。 これに対し、杉山城の築城主を後北条氏とする説が、一部の城郭研究者によって強く 支持されている。これは、杉山城の縄張りや設備が高度に技巧的であることが、論拠と なっている。 近年発見された『足利高基書状写』には、「椙山之陣」という呼称が見られるとされる。 高基の存命中、北条氏は杉山城の南方の拠点城である河越城を手に入れていなかった ため、「椙山之陣」が杉山城を指すとすれば、少なくともその築城主が北条氏である可能 性は低くなる。ただし、逆に「陣」という表現からまだ城は存在していなかったとする見方 もできなくはない。 前出の杉山主水が実在したとすれば、北条氏時代に杉山城が存在したことになるが、 当時の史料に見られないため、これ以上の歴史については不明である。 <手記> 杉山城をめぐる上述の考古学サイドと一部の城郭研究サイドの対立は、「杉山城問題」 と呼ばれているそうです。この点について、別項で私見を述べさせていただいてますので、 関心のある方はご覧になっていただければと思います。 杉山城は、市野川に面した半独立丘に築かれています。この城跡の素晴らしいのは、 遺構の残存状況やその巧妙さもさることながら、城山全体が私有地でありながら地権者 のご厚意により一般に開放されている点です。さらに、行政や地元の中学生などによって 定期的に整備されており、行き過ぎた公園化でもない、ありのままの遺跡としてきれいに 保存されています。これがいかにあり得そうでなかなかないことであるかは、城跡巡りに 興じていれば嫌でも身に染みて分かることでしょう(近年は城跡をはじめとする史跡保存 への理解もかなり進んでいますが)。 大手は南側とされていますが、北西ないし南東のどちらかの尾根先から登ることができ ます。杉山城の特徴として、市野川沿いの西辺を除いて山容が著しく緩やかであるという 点も挙げられます。だからこそ、縄張り上の工夫が不可欠だったともいえます。要所要所 には絵付きの説明板が設置され、いっそう見学しやすくなっています。 大まかな感想は上掲の別項に書いていますが、訪れてみての私見としては、縄張り上 からも山内上杉氏の築城とみて良いのではないかと考えています。南方の扇谷上杉氏 や北条氏に対する拠点として築かれ、山内上杉氏が北条氏に駆逐された後は、戦略的 価値を失ってまもなく廃されたのではないかと推測しています。 |
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主郭の城址碑と説明板。 | |
主郭南端の張り出しから主郭を俯瞰する。 |
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主郭東辺の虎口跡。 | |
主郭北端の堀と土塁。 | |
主郭西辺の横堀。 | |
南二の郭を望む。 | |
南二の郭の虎口。 | |
井戸郭下の井戸跡。 今も水が浸み出しています。 |
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井戸郭の竪堀。 | |
南三の郭の屏風折れ土塁と横堀。 | |
同じく南三の郭の横堀。 | |
南二の郭の屏風折れの土塁。 | |
南三の郭先の馬出し。 | |
大手口の曲輪。 | |
北東端の東三の郭を望む。 | |
東三の郭の堀。 | |
東三の郭脇の虎口。 | |
北二の郭の喰い違い虎口。 | |
北二の郭の横堀。 | |
北二の郭の張り出し部。 | |
北三の郭の張り出し部。 | |
北三の郭の虎口。 |