プフリクスブール城
(
Château de Pflixbourg )
 別称  : プフリクスブルク城、プリックスブルク城
 分類  : 山城(Höhenburg)
 築城者: フリードリヒ・フォン・シャウエンベルクか
 交通  : コルマール駅からバスに乗り、
      「St Gilles」下車徒歩20分
 地図  :(Google マップ

       <沿革>
           1212年にドイツ王となったフリードリヒ2世の命によって築かれたと考えられている。史料上は、 
          フリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝に即位した1220年に、「ブリッキスベルク(Blickisberc)」の城を
          家臣のフリードリヒ・フォン・シャウエンブルクに任せたとするのが初出とされる。
           1273年にハプスブルク家のルドルフ1世がドイツ王に就くと、1276年までの間に在地の家臣で
          あるコンラート・ヴェルナー3世・フォン・ハットシュタットに与えられた。しかし同じころ、より高所に
          ホーランズベルク城が築かれると、プフリクスブルク城の重要性は大きく低下した。そのため、
          1298年にドイツ王アドルフ・フォン・ナッサウがユーゼンベルク家へ質入れしたのを皮切りに、
          プフリクスブルク城は抵当の歴史を歩んだ。1316年にはオットー4世・フォン・オクセンシュタイン、
          の、1330年にはボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルク、1349年にはライン宮中伯ルドルフ2世、
          そして1375年にはハンネマン・フォン・ギルスベルクついでハンス・ウルリッヒ・フォン・フスの手に
          渡った。
           フス家が無嗣断絶した後の1433年、城は皇帝ジギスムントの副宰相を務めたカスパール・
          シュリックに与えられたが、翌年にはマクシミン1世・シュマスマン・フォン・ラッポルトシュタインに
          売却された。15世紀後半、ラッポルトシュタイン家はハットシュタット家と合戦におよび、前者が
          勝利したものの、プフリクスブルク城はその過程で損傷を受け、そのまま放棄されたと推測されて
          いる。


       <手記>
           現役当時はドイツ語圏だったのでプフリクスブルクと呼ばれていたはずですが、Pflixなどという
          単語はドイツ語になく、それらしき地名も見当たらず、最も近い語はPflicht(義務)だと思います
          が、城名の由来は杳として分かりません。コルマールの南西、フシュト川沿いに延びる山脈の
          先端近くにあるピーク上の城です。地図上は麓に鉄道駅があるのですが、臨時駅なのか検索
          しても便が見つからず、コルマールからバスを利用するのが確実です。私はそこからプフリクス
          ブール城→オーランズブール城(ホーランズベルク城)→アグネック城三城エギスハイムと、
          1日かけて歩きました。
           付け根の鞍部を越えると、日本の山城のような腰曲輪状の削平地が現れます。番所か何かが
          あったとも考えられますが、ここは欧州、早合点は禁物でしょう。その上には堀切があり、そして
          北側は長い竪堀状地形が続いていました。ヨーロッパには、少なくとも日本の竪堀に相当する
          堀があるとは聞いたことがなく、どのような目的があるのか、そもそも城の遺構なのかは定かで
          ありません。
           さらに登ると、今度は間違いなく城の遺構の空堀が現れ、城壁も見えてきます。ゾウリムシ状
          の楕円形をしていて、平虎口のように階段を上がって入る仕組みになっているのは特徴的な点
          といえます。円形の主塔のみ修復を受けているようですが、立ち入りはできませんでした。西辺
          の環状城壁は上を歩くことも可能で眺望も開けていますが、だんだんと片足分に狭まっていき、
          落ちたら結構な高さなので無理はせず途中で引き返しました。郭内には建物跡のほか、貯水槽
          も残っています。
           西辺から南辺にかけての横堀(内堀)はとくに見応えがあり、部分的に土留めないし城壁基部
          と思しき石塁が見られます。横堀の土塁外側は切岸になっていたとみられ、そこから下方を望む
          ともう1条横堀(外堀)が見受けられました。降りてみるとはっきり横堀で、尾根筋には腰曲輪の
          ような削平地もあります。おそらく、付け根側の堀切や竪堀状地形まで繋がっていたものと推察
          されます。
           オーランズブール城が築かれた後は重要性を失ったということですが、もともとは帝国の勅命で
          建造されただけあって、規模は大きく堅固な城と感じました。

  
 スタート地点のバス停付近から
 城山と主塔を望む。
オーランズブール城から見下ろす。 
 背後鞍部。
鞍部の上の削平地。 
 削平地の上の堀切状地形。
堀切の北に延びる竪堀状地形。 
 北東側の内堀。
北辺の城壁を望む。 
 平虎口の向こうに主塔を望む。
環状城壁を内側から。 
 主塔を見上げる。
北東側の建物跡。 
 同上。
貯水槽跡。 
 環状城壁の上を歩く。
北辺の環状城壁。 
 環状城壁と主塔。
北西端付近からの眺望。 
 西辺の横堀(内堀)。
同上。 
奥に石塁が見えます。 
 横堀土塁の切れ目。
 虎口かは分かりません。
横堀土塁内側の石塁。 
 内堀から環状城壁を見上げる。
横堀土塁の外側。 
 横堀土塁から外堀を見下ろす。
外堀のようす。 
 同上。
外堀脇の腰曲輪状地形。 


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