ラインフェルス城 (Burg Rheinfels) |
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別称 : なし | |
分類 : 山城(Spornburg) | |
築城者: 不詳 | |
交通 : ザンクト・ゴアール駅より徒歩15分 | |
地図 : (Google マップ) | |
<沿革> 1245年、カッツェネルンボーゲン伯ディーター5世によって、ライン川を航行する船からの徴税用の 城として築かれた。1255年、ディーター5世は通行税を引き上げたが、これに反発した周辺領主が 挙兵し、ラインフェルス城を囲んだ。包囲戦は1年以上に及んだが、陥落には至らなかった。 1260年、カッツェネルンボーゲン家はディーター5世と弟のエーベルハルト1世の2系統に分かれ、 城も2家で分割されることになった。2つの系統は、1402年にヨハン4世によって再統合されるまで それぞれ続いた。この間、ラインフェルス城は両家の館として整備が進んだ。 1479年に当主フィリップ1世が没すると、男子はすべて早世していたためカッツェネルンボーゲン 家は断絶した。フィリップの娘婿のヘッセン方伯ハインリヒ3世が遺領を継ぎ、以後ヘッセン方伯家 が世襲した。1570年には、ヘッセン方伯フィリップ1世がラインフェルス城をルネサンス調に改めた。 フィリップ1世の死去後に遺産争いが起こり、三十年戦争さなかの1623年に、分裂したヘッセン 方伯家の1家ヘッセン=ダルムシュタット方伯がラインフェルス城を所有することとなった。1626年、 城の受け取りにやってきたケルン大司教およびフェルディナント・フォン・バイエルンの軍と城兵の 間で激しい戦闘が起ったものの、ラインフェルス城は同年中にヘッセン=ダルムシュタット方伯家 へ引き渡された。 1647年、ヘッセン=ダルムシュタット方伯家による城の継承に異を唱えていた別流のヘッセン= カッセル方伯の軍がラインフェルス城を攻略した。両家は翌年に和解し、城とザンクト・ゴアールの 町を両家で分割することになった。モーリッツ・フォン・ヘッセン=カッセルの子エルンスト・フォン・ ヘッセン=ラインフェルス=ローテンブルクは、1649年からフランス軍の侵攻に備え城を拡充した。 実際、城はフランス軍に何度も包囲されたが、ヘッセン=カッセル家の将ゲオルク・ルートヴィヒ・ フォン・シュリッツの活躍により、その都度撃退に成功した。 1756年からの七年戦争に際し、ラインフェルス城はフランス軍によって占領された。続く18世紀 末のフランス革命戦争において、城は徹底的に破壊された。1812年、廃墟となった城はザンクト・ ゴアールの商人ペーター・グラスに買い取られ、建材の多くがエーレンブライトシュタイン要塞の 建築に転用された。 1843年、プロイセン国王ヴィルヘルム1世(後のドイツ皇帝)がラインフェルス城の廃墟を購入 した。1925年にはザンクト・ゴアール市の所有となり、1973年からはホテルとして営業している。 <手記> シェーンブルク城、グーテンフェルス城と並ぶ、ライン渓谷の古城ホテルとして名高い城です。 かなり規模の大きな城で、全体がホテルというわけではなく、史跡部分とホテル部分とに分かれ ているようです。 対岸には奇岩ローレライや、日本人が所有していることで知られるねこ城などがあり、ライン 渓谷のクライマックスの1つとなっています。 |
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ラインフェルス城を北側から望む。 |